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岡田茉莉子 : ウィキペディア日本語版
岡田茉莉子[おかだ まりこ]

岡田 茉莉子(おかだ まりこ、1933年1月11日 - )は、日本の女優映画プロデューサー。本名:吉田 鞠子(旧姓・田中)。父は戦前の二枚目俳優・岡田時彦。母は宝塚歌劇団卒業生田鶴園子。夫は映画監督の吉田喜重。新潟市立沼垂高等学校(現新潟市立万代高等学校)卒業。
==来歴==
東京市渋谷区代々木生まれ。1938年、母の田鶴がダンス教師の資格をとり、上海で教えることになったため、東京市大森区北千足町に住む母の妹で宝塚スターだった御幸市子のもとで暮らすようになる。1940年に御幸が東宝映画計画部でプロデューサーをしていた山本紫朗と結婚したため、翌年に母のいる上海へ渡った。戦争悪化のため1944年に単身帰国し、また御幸の下で暮らすようになった。翌年、疎開のために香蘭女学校から新潟市立高等女学校に転校した。
新潟で女学生時代、演劇部の友人と映画館でサイレント映画『瀧の白糸』(1933年版)を観て、帰宅後にその映画の話をすると母が泣き出したという。その時、初めてその映画の主演である岡田時彦が自分の父であることを知らされ、慌ててもう一度、今度は自分の父を見るために一人で映画館へ脚を運んだ。
1951年、叔父の山本のすすめもあり、東宝ニューフェイスの第3期として、小泉博らと共に東宝演技研究所に入所した。入所して20日後、成瀬巳喜男監督の映画『舞姫』の準主役に抜擢される。以降、父親譲りの美貌と演技力で東宝映画の主演スターとなる。
1957年3月にフリーとなり、同年9月に松竹と専属契約する。女性映画を得意とする松竹では数々のメロドラマに主演し、先に東宝から松竹に移籍していた有馬稲子と共に松竹の二枚看板として大活躍した。1962年、「岡田茉莉子・映画出演100本記念作品」として自らプロデュースした主演映画『秋津温泉』が大ヒットし、多くの映画賞も獲得した。会社の意向で助監督に戻されていた吉田喜重を監督に起用した作品であった。翌年、吉田監督と婚約した。
1964年(昭和39年)6月21日、旧西ドイツバイエルン州で吉田監督と海外挙式した。仲人役は木下惠介監督と女優の田中絹代新婚旅行では約40日間にわたり、ヨーロッパ各国を巡った。当時はまだ同年4月の海外渡航自由化の直後で、貴重な海外挙式とヨーロッパ旅行となった。
1965年、松竹とは2本の本数契約とし、事実上のフリーとなった。1966年、吉田と現代映画社を創立し、映画『女のみづうみ』を発表した。同年10月、東宝演芸部と年間4本の専属契約を結んで以後は、商業演劇を中心に活躍する。
映画が斜陽になった1970年代以降も、コンスタントに映画出演を続けており、現在も日本映画界を代表する大女優である。また『戒厳令』では女優としてではなくプロデューサーとして、吉田作品を支えている。
父娘とも、芸名の名付け親は作家の谷崎潤一郎である。「お父さんの芸名を付けたのだから君の名前も私が付けましょう」と言って付けてくれたそうである。しかし新聞や雑誌で「茉莉子」の「茉」の文字が、誤印刷で下の横棒が長く印刷されることが多かったという。その度に几帳面な谷崎から、岡田のもとに「君の名前の文字は上の棒が長いのです」と叱った手紙を頂戴したそうである。後年岡田は「私のせいじゃないのにね」と愉快に語っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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