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岡銚子塚古墳(おかちょうしづかこふん)は、山梨県笛吹市八代町岡にある古墳。4世紀後半築造の前方後円墳。甲府市下曽根町の甲斐銚子塚古墳と区別するため、「岡」が付けられる。山梨県指定史跡。 == 概要 == 所在する笛吹市八代町は甲府盆地南東縁の曾根丘陵東端に位置する。笛吹川左岸にあたり、一帯は大型古墳が濃密に分布する。標高は425メートルで、盆地を一望できる。 1992年(平成4年)に公園整備に伴い発掘調査が実施され、全容が判明した。主軸は東西方面で、全長は92メートル。後円部径は48メートルで高さ7.5メートル。前方部幅は41メートルで高さ4メートル。斜面を掘削して基盤としている。前方部は二段築成で、正面が突出し剣先状になる。後円部は三段築成で、墳丘南側の縊れと前方部の裾付近には葺石が施されており、粘土郭も確認されている。墳丘の周囲には一重の周溝がめぐらされている。主体部は主軸と直交する後円部中央にあるが、前方部と含めて耕作による破壊が著しい。 江戸時代後期の地誌『甲斐国志』によれば、宝暦年間に発掘が行われ、鏡や鉄刀、鉄鏃のほか斧、勾玉などの副葬品が出土したといわれ、甲斐の文人萩原元克『甲斐名勝志』(山梨県立図書館所蔵、現在は山梨県立博物館移管の『甲州文庫』)には、だ龍鏡やほう製二神二獣鏡の拓本が残されており、これらは三角縁神獣鏡である可能性も指摘される。出土品は江戸時代の発掘で散逸しているが、県内最古級の特殊台系譜の初期円筒埴輪片や壺型埴輪、異形埴輪片などの埴輪類が確認されている。 山梨県では曽根丘陵において前期古墳が展開し、4世紀中頃の小平沢古墳から4世紀後半のヤマト王権の影響を受けた県内最大級の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳が出現するが、岡銚子塚古墳は甲斐銚子塚古墳よりは若干新しいと築造期であると推定されている。甲斐銚子塚古墳とは墳形や副葬品や埴輪の形式からも類似性が指摘されており、両者が中道地域と八代地域を代表する勢力で、両者が盟友関係にあったとも考えられている。 5世紀代には甲府市中道地域が衰退し古墳の築造は盆地各地へ拡散するようになり、笛吹市八代地域においても造墓地が丘陵地から浅川扇状地に移り中小規模の古墳が築造されるようになる。八代地域では米倉に県内でも類例の少ない方墳である竜塚古墳があるが、従来は中道地域における小平沢-甲斐銚子塚の移行期に相当すると考えられていたが、近年の『山梨県史』編纂事業に伴う測量調査において竜塚古墳の築造期は5世紀中頃の中道地域における甲斐銚子塚-丸山塚古墳(円墳)の衰退期にあたると想定され、八代地域において岡銚子塚以後に方墳が採用された理由が問題視されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡銚子塚古墳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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