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岩下 守道(いわした もりみち、1931年12月9日 - 2015年1月18日)は、長野県北佐久郡北御牧村(現役当時、現・同県東御市)出身のプロ野球選手。 == 来歴・人物 == 小県農業高校では投手で、球速は速かったが制球に難があり、それを補うためにコーチをする者もいない中でカーブの投げ方を自分で考案したという〔『巨人軍 陰のベストナイン』86頁〕。夏に読売ジャイアンツが初めて選手公募を行った際、友人が面白がって岩下の名で応募したのがきっかけで入団テストを受け、応募者1300名の中でトップ合格する〔『背番号の消えた人生』176頁〕。 1950年夏に宇野光雄二軍監督の勧めで一塁手へ転向〔『巨人軍 陰のベストナイン』87頁〕、さらに郷里の先輩で大洋の監督であった中島治康に野手転向の報告を行った際に勧められて、左打者になる〔『背番号の消えた人生』176頁〕。には二軍の新日本リーグでは打点王、打率2位となりで最高殊勲選手のタイトルを獲得し〔『巨人軍 陰のベストナイン』88頁〕、7試合ながら一軍公式戦に初出場する。からにかけては正一塁手・川上哲治の控えとして、主に試合後半の守備固めを中心に〔『巨人軍 陰のベストナイン』88頁〕一塁手として毎年30~40試合に出場した。この間ののオフには、大ベテランの川上が常時出場できない場合は中堅手の与那嶺要を一塁手にコンバートさせるとのコメントに驚き、水原茂監督にトレードの直訴も行っている〔『巨人軍 陰のベストナイン』93頁〕。 1958年限りで川上哲治が引退し、レギュラー獲りのチャンスが訪れたが、に入れ替わりに早稲田実業高校から入団した王貞治が一塁手にコンバートされたこともあって〔『背番号の消えた人生』184頁〕、宇野が監督を務めていた国鉄スワローズへ移籍。国鉄では一塁手に飯田徳治がいたが、宇野は常時出場させれば活躍できると踏んで、岩下を二番・左翼手としてレギュラーポジションに抜擢〔『巨人軍 陰のベストナイン』95頁〕。この年岩下は123試合に出場して、打率.280とリーグ打撃成績7位に入り、25盗塁も記録した。翌は6番打者として111試合に出場するが、頭部や膝のケガもあって〔『巨人軍 陰のベストナイン』96頁〕打率.244と成績を落として自由契約となり〔『日本プロ野球トレード大鑑』88頁〕、最下位に転落して監督を辞任した宇野とともに国鉄を退団する。貴重な左打者であり、驚きの声もあったが、シーズン中にゴルフ場に通っていたことが当時の野球中継で話されたことが遠因の一つでもある。 より、かつて巨人で同時期にプレーした千葉茂が監督を務める近鉄バファローに移り、控えの一塁手・外野手として守備固めや代打で82試合に出場する。翌に監督が別当薫に替わると出場機会が激減し、同年オフに現役引退。 引退後は西武百貨店への勤務したのち〔『日本プロ野球トレード大鑑』97頁〕、アパレル関連業のイワシタ服飾を創業し、その代表取締役社長も務めた〔『プロ野球データ事典』59頁〕。 2015年1月18日肺炎のため死去〔元巨人内野手の岩下守道さん死去 83歳 日刊スポーツ 2015年1月21日閲覧〕。83歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩下守道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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