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岩下清周[いわした きよちか]
岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857年6月19日) - 昭和3年(1928年)3月19日)は、実業家。銀行家としてベンチャー企業への積極的な融資を行った。息子は、カトリック司祭で哲学者の岩下壮一、清周本人も聖公会に所属したクリスチャンであった。 ==来歴・人物== 信濃国松代城下代官町(長野県長野市松代町)に松代藩士の岩下佐源太の次男に生まれるが、ほどなく実父が死去したため、三歳で叔父の岩下章五郎の養子となる。松代藩兵制士官学校を卒業すると上京し、慶應義塾、商法講習所(現一橋大学)を中退し、三菱商業学校(後の明治義塾)卒業。 1878年(明治11年)三井物産入社、同社パリ支店長等を経て、三井物産創立者である益田孝らと品川電灯を設立、同社社長就任。1893年(明治26年)三井銀行本店副支配人、1896年(明治29年)同大阪支店長時代には大阪・関西財界での強力な人脈網を中上川彦次郎に批判され衝突、1897年(明治30年)北浜銀行設立。同行常務、頭取を歴任。「日銀幹部ストライキ事件」では、中上川が支援した山本達雄総裁らに反発し、鶴原定吉、植村俊平、藤尾録郎らの免職された東大出身者らを積極的に住友など関西財界に紹介した。 衆議院議員や、箕面有馬電気軌道(現:阪急阪神ホールディングス)初代社長兼、大阪電気軌道(大軌、現:近畿日本鉄道)第2代社長等も務めた。大軌では、生駒トンネル建設案を出し、実現させている。他にも大林組の設立等にもかかわる。南満州鉄道副総裁。 1914年(大正3年)、大林組や大軌などの営業不振による債務焦付きで、北浜銀行が破綻し逮捕された。1920年(大正9年)温情舎小学校(現不二聖心女子学院中学校・高等学校)を設立した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩下清周」の詳細全文を読む
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