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岩井一成 : ウィキペディア日本語版
岩井一成[いわい いっせい]

岩井 一成(いわい いっせい、1916年4月6日 - 1996年1月)は日本の薬学者薬化学者
== 経歴 ==
1941年(昭和16年)東京帝国大学医学部薬学科を卒業後、同年4月東京帝国大学医学部に奉職、その後4年間にわたる海軍短期現役勤務を経た後、1946年(昭和21年)1月同大学医学部薬化学教室副手に復職、落合英二教授のもとで戦後の薬化学教室の再興に当り、同教室の中心テーマであったヘテロ環化学の発展に貢献した。
1951年(昭和26年)から5年間助教授として九州大学薬学科の建設に参画、津田恭介教授を助けて薬化学教室の基礎を築いた。
1956年(昭和31年)に退職して、三共に入社。同社の研究所において「アセチレン化合物を利用した糖類ならびにヘテロ環合成研究」に顕著な業績を挙げ、1964年(昭和39年)、(財)日本薬学会学術賞を受賞し、この研究の成果として生れた農薬タケガレン(殺菌剤)は特色をもつ健苗剤として市販された。社内では中央研究所次長、製品計画次長を歴任、1970年(昭和45年)取締役製品計画部長、1979年(昭和54年)常務取締役に昇任される。1984年(昭和59年)より学術顧問となり、新たに設立された科学技術研究所の社長に就任した。1989年(平成元年)同社会長、1991年(平成3年)、顧問として社業の発展に尽くした。
この間、(財)日本薬学会理事及び評議員として学会の運営に直接参画し、運営計画委員として、今日の役員制度、同選考制度の立案、学会賞の選考制度の立案に多大の寄与をされた。
薬学研究長期計画委員として本会の長期ビジョンの設定に貢献される一方、「長井記念館」建設委員としてその建設に尽力。1967年(昭和42年)〜1972年(昭和47年)には薬学図書館建設委員(旧館)、1985年(昭和60年)〜1991年(平成3年)には長井記念館建設実行委員長として、日本薬学会の長期にわたる財政の根幹に関わる事業に尽力された。
同博士の学会での活躍は本会のみに留まらず、日本化学会日本農芸化学会日本医学会等にも及んだ。特に有機合成化学協会では理事及び副会長として長年その充実と発展に尽くし、本年度より有功会員に推挙された。また厚生省医薬品産業政策懇談会及び新薬の臨床試験に関する専門家会議の有力なメンバーとして、また日本製薬工業協会の研究開発対策委員会委員長として、日本の製薬産業全般の将来の政策及び研究開発の方策に真正面から取り組んだ。このように同氏の活躍は産官学にわたり、その幅広い知識と情熱は余人をもって代え難い存在であり、薬学出身だが、医学、工学、理学、農学畑に多くの知己を持つ数少ない人物であり、また無二の国際通で、日本の製薬産業が産官学相協力して発展して行くために欠くことの出来ない人物だった。
しかし、1995年(平成7年)9月、病を得て4ヶ月の闘病の後、1996年(平成8年)1月に死去〔池川信夫「故 岩井一成先生を偲んで」 (「ファルマシア」32巻4号)〕。1994年(平成6年)3月、長井記念ホールで開かれた「岩井先生の喜寿を祝う会」に出版した小冊子、「生い立ちの記」には少年時代からの一生を淡々と語っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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