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岩城 重隆(いわき しげたか、生年不詳 - 永禄12年(1569年))は、戦国時代中期の武将。陸奥の戦国大名である岩城氏の当主。二郎太郎。左京大夫。明徹。伊達政宗の曾祖父にあたる。 == 生涯 == 岩城由隆の子であり、次男で兄に岩城成隆(政隆)がいたとされる。この時期の岩城氏の続柄や継承関係ははっきりしないが、由隆の跡は成隆が継ぎ、重隆は分家して白土姓を名乗っていたという。成隆は江戸氏と結び佐竹氏に軍事的圧力をかけ常陸に勢力を伸ばそうとしたが失敗した。時期は不明だが成隆はまもなく死去し、重隆が当主となった。 重隆は当初は白河結城氏と同盟関係を固めることにより、伊達稙宗の縁戚となって勢力が盛んとなっていた近隣の相馬氏や田村氏と対抗しようとしたが、子の久保姫の嫁ぎ先をめぐって伊達氏や相馬氏と対立し、軍事的な争いにまで発展した結果、岩城氏方が敗れ、久保姫を伊達晴宗(稙宗の長男)に輿入れせざるをえなくなったという。久保姫を巡る争いについては諸説あり、時期も明確ではないが、その際に晴宗と久保姫の子を岩城氏の養子に迎えることを約束させたという。やがて鶴千代丸(岩城親隆)が誕生している。 天文10年(1541年)には京都に上洛して、叙位・任官された。 天文11年(1542年)に伊達氏の内訌である天文の乱が勃発し、奥州を巻き込んだ戦乱に発展すると、重隆は晴宗方となり稙宗方の相馬氏や田村氏と抗争し、後に晴宗方に寝返った蘆名氏の蘆名盛氏と共にその勇戦ぶりを晴宗に賞賛された。また、晴宗と連絡をとりつつ田村氏や二本松氏の内部抗争を誘発させ、弱体化を図るなど調略も駆使した。 天文の乱の終了後は、田村氏や相馬氏との抗争を継続する一方で、伊達氏、蘆名氏、佐竹氏との間で外交戦略を駆使ししぶとく生き残りを図った。伊達氏より鶴千代丸を迎えたのもこのころである。やがて周辺の石川氏や白河結城氏が佐竹氏への従属度を深めていくと、重隆は継嗣の親隆に家督を譲り、その正室に佐竹義昭の娘を迎え友好関係を結ぼうとしたが、佐竹義昭、佐竹義重父子の南奥進出の野心をおさえることはできなかった。一門である船尾氏の佐竹氏への従属はその象徴的な出来事である。 永禄12年(1569年)に死去。まもなく親隆も病に倒れ、岩城氏はその家中の主導権を佐竹氏に握られることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩城重隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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