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岩城隆邦[いわき たかくに]
岩城 隆邦(いわき たかくに)は、出羽亀田藩の第12代藩主。 天保15年(1844年)4月13日、第8代藩主・岩城隆喜の七男として生まれる。はじめ外叔父の真田秀八郎(岩城隆謨)の養嗣子となっていた。文久元年(1861年)10月16日、先代藩主で兄の隆政の死去により、末期養子として家督を継いだ。最後の亀田藩主は、一般的にはこの隆邦とされている。12月15日、将軍・徳川家茂に御目見し、12月28日に従五位下・左京大夫に叙位・任官する。 慶応4年(1868年)4月1日、明治新政府の命令に従い、上洛する。同年閏4月13日、明治新政府から亀田へ帰国の許可を得る。閏4月16日京都を出発、5月25日亀田に到着する。戊辰戦争に際し、はじめは奥羽越列藩同盟に参加した。しかし、同年7月、久保田藩の呼びかけで本荘藩・新庄藩・矢島藩とともに同盟を脱退し、新政府に与した。その後、庄内軍に敗れた新政府軍が本荘、亀田を見捨て、秋田まで退却した。このために8月8日、庄内藩の説得に応じて和議を結び、庄内軍とともに再び奥羽越列藩同盟として新政府軍と交戦した。しかし9月9日、援軍により勢いを盛り返した新政府軍に敗れ、降伏した。小藩のため、主体的な行動を取ることは不可能であった。 明治元年(1868年)12月7日、最終的に新政府の敵となったため、亀田藩は2,000石の減封となり、隆邦は隠居を命じられた。隆邦は江戸の菩提寺・総泉寺で謹慎した。それにともなって、親族の堀田家から隆彰(近江宮川藩主・堀田正誠の三男)を養子に迎え、岩城家を相続させることを許可された。明治3年(1870年)4月4日、亀田藩知藩事になっていた養子・隆彰の後見人に任命されたが、7月12日に免職された。 明治42年(1909年)10月、当主となっていた三男・隆長の隠居により、再び家督を相続した。それにともなって子爵となった。明治44年(1911年)2月18日、東京で死去した。享年68。三男の隆長は隠居していたため、養子の隆徳(子爵・青山幸宜の四男)が跡を継いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩城隆邦」の詳細全文を読む
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