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梅津政景[うめづ まさかげ]
梅津 政景(うめづ まさかげ、天正9年(1581年) - 寛永10年3月10日1633年4月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将常陸国戦国大名(のち出羽国久保田藩佐竹氏の家臣。父は宇都宮氏旧臣・梅津道金、母は木村氏。妻は山方久定の娘。子は一人娘の「まつ」。兄は梅津憲忠、正一(勝都)。他に異父兄2人と異母兄1人がいる。通称は主馬、茂右衛門。号は怡軒。
== 経歴 ==
兄、憲忠と共に佐竹義宣茶坊主となり、金阿弥と称して近侍した。その後蓄髪して主馬と名乗る。算用、文筆に精通し能吏として台頭、主に行政面で活躍した。一方で馬術にも堪能で、武将としての才幹もあった。関ヶ原の戦い後の1602年、佐竹氏が出羽秋田に移封されるとこれに従い、久保田藩(秋田藩)の創設に尽力し、兄とともに家老勘定奉行などの要職を歴任した。1615年には大坂夏の陣にも参陣している。
政景の業績に触れる上で欠かせないのが銀山奉行としての活躍である。義宣が秋田に移って5年後、雄勝郡の院内に銀山が開拓されたが、ならず者が跋扈し、犯罪が横行する無法地帯と化しており、産出量も芳しくなかった。政景は渋江政光の義宣への提言によって銀山奉行に選ばれ、綱紀の是正と銀山の整備に尽力した。政景の施政が奏功して銀山の治安は徐々に回復し、産出量も増加、やがて久保田藩は夥しい金銀を産出するようになり、文字通りの黄金時代を迎えた。政景は卓越した理財家〔三百藩家臣人名辞典第一巻 梅津政景の項〕としての評価を得、義宣も一層の信頼を寄せるようになった。
寛永年期に入ると家老に昇進し、兄の憲忠や渋江政光の弟・小場宣忠と共に藩政を取り仕切った。寛永10年(1633年)に義宣が没した時、政景も重病の床にあったが、病を押して葬儀を指揮した。このため病状が悪化し、2ヶ月後に後を追う様に死去した。
政景が書いた『梅津政景日記』は、久保田藩の藩政や当時の武士・庶民の生活を現代に伝える貴重な史料となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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