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岩本徹三[いわもと てつぞう]
岩本 徹三(いわもと てつぞう、1916年6月14日 - 1955年5月20日)は、日本海軍の軍人。支那事変、太平洋戦争における撃墜王。最終階級は海軍中尉。 ==経歴== 1916年(大正5年)6月14日、樺太の国境近くで警察官の父親の元に三男一女の兄弟の三男として生まれた〔p.24 - p.26, 押尾一彦・野原茂, 『日本陸海軍航空英雄列伝』, 光人社〕。小学生の頃、父親が北海道札幌市の署長に転勤し、スキーで登校することもあった。13歳のとき、父親が退官して父の故郷である島根県益田へ移る。県立益田農林学校高等科2年に転入する。数学と幾何は優で、学校のクラブ活動ではラッパ隊に入部した。趣味は読書と園芸であった。幼少時から腕白ですばしっこく勉強より体を動かすことを好み、地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝ったりする反面、一本気の頑固な正義感の持ち主で教師を辟易させることもあった。魚突きをして捕らえることが得意であった。1935年益田農林学校を卒業後、「若いときは勉強のため大学受験し、大学卒業後都会からもどらないつもりの長男や亡くなった次男の代わりに、家に残ってほしい」という父親の意に反して、大学受験と偽って海軍の志願兵試験(予科練習生予定者)を受験して合格、航空科を選択する。海兵団に入団する際に「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます。」と両親に告げた。 1934年(昭和9年)6月1日、呉海兵団に四等航空兵として入団。1934年11月15日三等航空兵。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。同年8月20日三等整備兵、航空母艦龍驤の艦上整備員。同年11月2日二等整備兵。次いで操縦員を志望して認められ、1936年(昭和11年)4月28日第34期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。射撃の成績が抜群であり、自習にも励み、消灯のあとでも教本を持って外に出て街灯の光でおそくまで勉強したこともあった。霞ヶ浦友部分遣隊では、大宅秀平、磯崎千利たちから教えを受けていた。1936年年12月26日第34期操縦練習生卒業、一等航空兵、佐伯海軍航空隊勤務。1937年6月1日普通善行章一線付与。1937年7月大村航空隊勤務。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩本徹三」の詳細全文を読む
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