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岩村遠山氏(いわむらとおやまし)とは、利仁流加藤氏一門、美濃遠山氏の宗家。 == 歴史 == 文治元年(1185)、源頼朝が加藤景廉に遠山庄を与え、景廉の嫡男遠山景朝がその地頭職を継承した。景朝は承久の変では北条泰時に従い、一条信能を岩村にて斬首している。 岩村遠山氏は、景朝の子遠山景員を祖とし遠山家惣領とされる。しかしながら、長享2年(1488年)の『蔭涼軒日録』には「遠山には三魁がある。第一は苗木、第二は明智、第三は岩村といい・・・」と書かれ、苗木遠山氏、明知遠山氏の後塵を拝していたようである。しかし、苗木は何度か跡継ぎが絶えており、天文年間に岩村遠山氏から遠山武景、遠山直廉が養子として苗木遠山氏に入っている。 天文20年(1551年)頃に武田信玄が木曽谷・伊那谷を勢力を伸ばし、天文24年(1555年)1月には美濃の恵那谷に進出し岩村の大圓寺に制札を出しており〔『明叔録』〕、木曾義康とほぼ同時期に岩村遠山氏は武田家の傘下に入ったと見られる。 弘治2年(1556年)に当主の遠山景前が死去するとその後を遠山景任が継いだ。景任は織田家からおつやの方を妻に迎えていたが引き続き武田家に組していたと見られ、元亀3年(1572年)に離反した小里氏(明知遠山氏の親戚)の成敗を信玄から指示されている〔『武田信玄と快川和尚』P.38-P.46〕。しかし翌8月に景任は子を残さずして死去したため、小里氏の手引きにより9月には織田信広と河尻秀隆が岩村城に入る〔と、信長は自分の子である御坊丸を景任の養嗣子とした。 しかし11月に武田信玄が西上作戦を開始した際に、岩村城は包囲されて降伏。秋山虎繁が軍監として城に入った。 天正2年(1574年)、武田勝頼の東美濃侵攻で諸城をさらに落とされたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで勝頼が敗れると、織田信忠らは反攻に転じて、岩村城を包囲。11月21日に岩村城は落城し、武田方についていた遠山氏は尽く死亡した。(天正3年の岩村城の戦い) これにより遠山七頭(七遠山)は苗木氏と明知氏の2系統を残して滅亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩村遠山氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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