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岩澤庸徳 : ウィキペディア日本語版
岩沢庸徳[いわさわ つねのり]

岩澤 庸徳(いわさわ つねのり、1912年2月12日 - 1970年10月3日)は、日本の映画監督脚本家である〔キネ旬, p.59.〕〔''岩沢庸徳''、''jlogos.com'', エア、2014年6月24日閲覧。〕〔''岩沢庸徳''・''岩澤庸徳''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年6月24日閲覧。〕〔''岩沢庸徳''、日本映画情報システム、文化庁、2014年6月24日閲覧。〕〔''岩沢庸徳''日本映画製作者連盟、2014年6月24日閲覧。〕〔''岩沢庸徳''日本映画データベース、2014年6月24日閲覧。〕〔''岩沢庸徳''テレビドラマデータベース、2014年6月24日閲覧。〕〔''岩澤庸德''、台湾電影資料庫、国立政治大学 、2014年6月24日閲覧。〕。新漢字表記岩沢 庸徳並木路子リンゴの唄』を挿入歌とした映画『そよかぜ』の脚本家として知られる〔〔〔。台湾に招かれて監督した1958年(昭和33年)に公開された『阿蘭』は同地で大ヒットを記録した〔黃, p.235-236, 295.〕〔新聞局, p.79, 163.〕。長男・次男はのちに長じてフォークデュオ「ブレッド&バター」を結成した〔profile ブレッド&バター、2014年6月24日閲覧。〕。
== 人物・来歴 ==

=== 松竹大船の時代 ===
1912年(明治45年)2月12日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔〔。
日本美術学校図案科(現在の日本美術専門学校デザイン科)を卒業し、松竹大船撮影所に入社する〔〔〔シミキンの忍術凸凹道中 、日本映画情報システム、文化庁、2014年6月24日閲覧。〕。当初は美術部に配属されたが、企画部に異動、次いで助監督部に転じた〔〔〔。同部では、小津安二郎門下の原研吉に師事する〔。1940年(昭和15年)8月1日に公開された五所平之助監督の『木石』ではサード助監督、同年12月16日に公開された『幸福な家族』ではセカンドであった〔。第二次世界大戦が始まり、松竹のみならず日本映画全体の製作本数が激減する。1943年(昭和18年)7月11日、満31歳のときに長男・幸矢が生まれる。戦争末期の1945年(昭和20年)6月28日、同じ助監督部の岩間鶴夫と共同で脚本を執筆した映画『ことぶき座』(監督原研吉)が公開され、脚本家としてデビューした〔〔〔。
戦後間もない同年10月11日、戦時中に執筆していた『百万人の合唱』という題の脚本を改稿・改題し〔朝日, p.6.〕、『そよかぜ』(監督佐々木康)として公開される〔〔〔〔。同作は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)検閲第1号の映画としても知られるが、並木路子が劇中で歌った『リンゴの唄』のレコードが12万枚(1947年末時点)も売れ、同作とともに大ヒットを生んだ〔石川, p.35.〕。1947年(昭和22年)1月21日には、新藤兼人中山隆三と共同で執筆したオリジナル脚本が『仮面の街』(監督原研吉)として公開され、同年11月11日には、中山の脚本を映画化した『乙女の祈り』という短篇映画を監督し、初監督を経験する〔〔〔。正式に監督昇進したのは1949年(昭和24年)で、ふたたび中山の脚本を得て、清水金一の主演作『シミキンの忍術凸凹道中』を監督、同作は同年5月23日に公開された〔〔〔〔。同年2月23日には次男・二弓が生まれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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