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岩瀬会戦(いわせかいせん)は、戊辰戦争の秋田戦争で旧幕府軍の南部藩が久保田藩の領内に進軍して、久保田藩を中心とする新政府軍と慶応4年9月2日に行われた戦闘である。南部軍の秋田戦争における最大の戦闘である。 == 経緯 == 秋田総督府は、大館城を攻略した南部軍の脅威に対して対策を立てる。西軍下参謀大山格之助は佐賀藩隊長田村乾太左衛門を呼び寄せ、田村は部下90名と肥前小城藩隊長田尻宮内が率いる兵500名と共に応援に駆けつけた。田尻は田村よりも官位は上であるが、率直に話し合い「戦中のこと、平時とはちがう、どんな命にも従う」と田村に従うことを話し合っている。 慶応4年(1868年)8月28日夜に佐賀藩、小城藩と佐竹軍、茂木軍の総兵力1400名の新政府軍の連合軍が荷上場村に集結した。8月29日早朝、新政府軍の反撃が開始され南部軍は坊沢村、前山村、綴子村を焼き払い総退却する。30日久保田藩は早口村まで進撃をした。小降りの雨と強風の天候の中、先発の大館兵は1発の抵抗もなく早口村を奪還した。この夜、久保田兵は強風を利用して川口村の佐渡本陣攻撃を図ったが、隙のない厳戒態勢のために中止した。9月1日、強風の為に休兵となった。綴子村の本陣で、会議が行われ、翌2日に天候のいかんを問わず川口村に進撃することを決定した。内容は、綴子村発進は午前2時、本道を軸に、中須田間道、板沢間道の3道から一斉に討ち入る作戦である。 9月2日、強風はすっかりおさまり『戊辰戦史』によると「天気晴朗、秋風凛乎として肌膚に沁み、軍容自ずから粛然たるを覚ゆ」とある。午前6時、佐賀大砲隊の岩瀬砲撃を合図に、岩瀬会戦が開始された。ところが、南部総督将楢山佐渡は前夜のうちに久保田軍の動向を察知、川口の本陣を出て岩瀬村で自ら指揮を執っていた。そのため、南部側の陣地は固かった。 岩瀬会戦は、最大の戦闘になった。両軍の兵力はともに1400人程度。楢山佐渡の本道筋のみで800人の兵士がいた。久保田軍の作戦は逆に対策を練られてしまっていた。しかし、本道筋の遅延は全戦線に影響を与えると考えた田村は、難戦となることを覚悟して、強硬に進撃することを決定した。 進撃の途中、板沢村では側面から射撃を受け、田村が叱咤激励して進撃を行った。兵を分けて高陣馬山(早口山。現在早口駅の北方の公園)の山上より本道の敵の右側を射撃した。高陣馬山を突破した部隊には、南部方の栗山新兵衛隊の70~80名が奇襲をかけ難戦に陥り、後続部隊も到着しない。また、本道筋の部隊は米代川河畔の松林まで進出したが、ここで対岸の外川原村からの側面射撃を受け、さらに対岸の貝吹長根(外川原村東方の山)の大砲隊から射撃され、身動きができなくなった。秋田戦争初期から戦闘指揮を行っていた久保田藩隊長の根本源三郎は、岩瀬山(現在の杉子沢集落北方の山)を占領するも、南部側の挟み撃ちに合って敵弾を打ち込まれ、隊士はばたばたと討ち死にする。根本源三郎も被弾し、一度は立ち上がり指揮を続けたが、二度目の敵弾で戦死した。佐賀の斥候である馬渡作次郎は総大将の田村へ一時退却を具申したが、田村は「敵も苦戦だ」と退けた。 午前10時頃まで4波の戦闘があったが、やっと戦闘に変化が訪れた。米代川対岸の板沢口を進撃中の別働隊が、味方の苦戦を知り、大砲2門、臼砲1門を主軸に貝吹長根の部隊に攻撃を開始した。またたく間に貝吹長根の部隊は打ち払われ、これを転機として総大将は全軍の総攻撃を命じた。 久保田側は敗走する南部側の急迫撃を開始した。米代川近くの南部側は退路がなくなり争って米代川に飛び込み多くの犠牲者を出した。自陣に行き着けずにさまよい歩いているうちに討ち取られた者もいた。楢山佐渡はこの事態にも、敗兵をきびしく叱咤して、前線に追い返すなど戦意を見せた。『野も山も戦場ならざる処なく、殊に楢山佐渡の厳しい下知に、官軍方は打ち込まるる勢い』(『戊辰出羽戦記』)となったが、久保田藩側は地理に詳しいことを利用し、近傍の山に兵を配置して発砲し、正午頃に南部側は総崩れとなった。 中須田間道の部隊は岩瀬本道の味方を援護した後、反転して間道を急進し、川口村一番乗りを果たした。しかし、南部勢はすでに引き上げた後であった。板沢間道の部隊は、太田、田沢、大披を辿り、全軍を街道筋と小袴山迂回組に分けて板戸村を奇襲した。この奇襲は迂回組によって成功した。板戸村には桜庭祐橘隊がいたが、昼食中の不意を襲われ幹部級の戦死者を出し、多量の軍需品や金子まで置き去りにして敗走した。その後、板沢間道の部隊は扇田村を奪回し、扇田村に陣を置いた。 板沢村での戦いでは、盛岡藩の熊谷助右衛門(直興、月郷とも)という武士が無抵抗で殺されている。不審に思った金剛隊隊長の小野寺主人が懐中を調べてみると、彼は『時勢論』という文章を懐中に忍ばせていた。熊谷は勤王派で上司に時の時勢を説いたが容れられず自分の考えを文章に表して死んでいった。熊谷助右衛門の親友は内藤湖南の父の内藤十湾である。熊谷は内藤に勤王派である自分の気持ちを告白していた。内藤は有為の彼は戦死し余は生き残ったのは恥しいと、詩に託して彼の死を惜んだ(内藤十湾『出陣日記』)。『時勢論』を読んで感動した小野寺は、大館の宗福寺に助右衛門の首を志士の礼をもって葬った。 岩瀬を退いた南部軍の本隊は、餅田村で抵抗を試みた。故郷を目の前にして、大館勢は餅田を突破し、片山まで押し出し二頭山の南部軍を打ち破り土飛山に向かった。右翼隊は舟場まで突出し、勝坂の南部軍を攻撃した。しかし、早朝から急迫してきた久保田軍には息切れが出て、あまりに突出した形の部隊は次第に苦戦する形となった。大館にいた南部側の部隊は伏兵となり攻撃してきた。久保田側は死傷者を出し敗退した。南部側の記録では大砲3門を分捕ったとある。久保田側の記録でも、小城・佐賀の大砲各1門、久保田の大砲1門が分捕られたとある。久保田藩は二頭山に本陣を置き休戦に入った。 楢山佐渡は神明宮に陣を引いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩瀬会戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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