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岩瀬勝輔 : ウィキペディア日本語版
岩瀬勝輔[いわせ かつすけ]

岩瀬 勝輔(いわせ かつすけ、1921年大正10年)8月4日 - 1942年昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人特殊潜航艇甲標的」艇長としてマダガスカル攻撃に参加し、戦死二階級特進により最終階級は海軍大尉
== 生涯 ==
香川県綾歌郡山田村出身。税務署職員であった父が勤務していた愛媛県松山市に生まれる。四人兄弟妹の次男であった。岩瀬は父の転勤により、小中学校で三度の転校を経験した。入学した中学滋賀県立膳所中学で、徳島県立池田中学に転入し、1938年(昭和13年)、中学4年で陸軍士官学校海軍兵学校に合格した。海兵進学を選択し、1941年(昭和16年)3月に卒業した。岩瀬は海兵69期生で、このクラスは343名の同期生中223名が戦死〔『一海軍士官の太平洋戦争』201頁〕〔豊田穣によれば245名(『同期の桜』5頁)。〕している。特殊潜航艇(以下「特潜」)関係の戦死または殉職者は岩瀬を含め4名である〔『一海軍士官の太平洋戦争』202頁〕。
;海軍将校
少尉候補生として練習艦隊所属の軽巡洋艦北上」乗組みとなり、パラオアモイを巡航するひと月の航海を行った〔『一海軍士官の太平洋戦争』65頁〕。空母鳳翔」乗組みを経て同年11月海軍少尉任官。翌月に日米開戦を控えた時期であり、岩瀬は「特潜」艇長として訓練を受ける。前年には岩佐直治秋枝三郎らの訓練が開始されており、岩瀬は二十歳の最年少艇長であった。
太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において岩佐ら「特潜」搭乗員9名が戦死し、軍令部は「特潜」による港湾進入攻撃に慎重であった〔『決戦 特殊潜航艇』「第三章 2 第二次特潜計画」〕が、戦訓を取り入れた装備の改善などが実施され第二次攻撃が決定した。実施部隊は新たに編成された第八潜水戦隊に属し、さらに3個先遣支隊に区分される。岩瀬はインド洋方面の攻撃を担う甲先遣支隊(今和泉喜次郎司令)に属する「特潜」艇長に選ばれた。他の艇長は秋枝、太田政治〔海兵68期生、前掲写真岩瀬の隣。のち遣独潜水艦作戦に従い「伊52潜水艦」航海長として戦死。〕、岩瀬艇の艇附は高田高三二等兵曹(戦死後兵曹長)である。
水上機母艦日進」でペナンへ進出し、ここで「特潜」を母潜に搭載した。岩瀬艇は「伊16潜水艦」へ搭載され、出撃は4月30日である。しかし行動した海域には特有のうねりがあり、母潜3艦は浸水を受ける。太田艇を搭載した「伊18潜水艦」は攻撃を断念するに至った〔『太平洋戦争海藻録』165頁〕。
;マダガスカル攻撃
偵察行動により英軍に占領されたマダガスカル島北部のディエゴ・スアレスを攻撃目標に定め、5月31日夕刻、岩瀬は高田とともに出撃した。「伊20潜水艦」からは艇長秋枝三郎大尉、艇附・竹本正巳一等兵曹が出撃している。湾内に進入した「特潜」は戦艦ラミリーズ」及び油槽船1隻に魚雷を命中させ、油槽船は沈没し「ラミリーズ」は1年あまり戦線を離脱する損害を受けた〔『本当の特殊潜航艇の戦い』「第三章 甲標的作戦の実態」〕。しかし、「特潜」2隻は未帰還となり岩瀬ら4名は戦死とされた。当時からマダカスカル島に上陸し戦闘を交えた者の存在は知られていたが、今日では雷撃後上陸して戦死したのは秋枝、竹本であったことが判明している〔『太平洋戦争海藻録』166-167頁〕〔『本当の特殊潜航艇の戦い』133頁-134頁〕。岩瀬艇は港内に侵入した可能性はあるものの〔『本当の特殊潜航艇の戦い』131頁〕、発進後の行動は不明である。岩瀬艇の可能性のある「特潜」は1989年平成元年)に発見され、また上陸して戦死した者については断定は難しいとの見解もある〔『海軍特殊潜航艇』94頁〕。
;戦死後
岩瀬の絶筆は豪気将呑五大州〔『第二次特別攻撃隊員 岩瀬大尉』89頁〕、呉鎮守府での海軍葬ののち郷里の山田村で村葬が営まれた〔『第二次特別攻撃隊委員 岩瀬大尉』104頁-107頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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