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岩谷松平[いわや まつへい] 岩谷 松平(いわや まつへい 1850年6月〔参考文献『日本近現代人物履歴事典』75頁では、嘉永2年2月2日(1849年2月24日)。〕〔嘉永2年6月3日『岩谷松平と東京市民』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕 - 1920年3月10日)は薩摩国(鹿児島県)出身の実業家、政治家。岩谷商会会長。別名、岩谷天狗。 == 経歴 == 薩摩国薩摩郡隈之城郷東手村の向田町(現在の薩摩川内市)にて、郷士・岩谷卯之助の二男として生まれる。1858年に母と死別。1863年に父をも失ったため、酒造業を営む本家・岩谷松兵衛の養子となる。 1877年8月、東京銀座に薩摩物産販売店"薩摩屋"を開き、成功を収める。このころ、自邸内に20数人の愛人を囲い、男女21人の子を儲けて話題となった。1880年5月に煙草販売業「天狗屋」を開業した。しかし1881年同業者に訴えられ東京裁判所より身代限(破産)を申し渡される〔「岩谷松平身代限」朝野新聞1881年3月16日『新聞集成明治編年史. 第四卷』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。 日清戦争の際には軍に煙草を納入し、これは後の『恩賜のたばこ』のもととなった。煙草産業の大立者となり、東洋煙草大王の異名を取る。店頭に「勿驚(おどろくなかれ)税金たつた百萬円」、「慈善職工五萬人」と大きく書くなどして、自分の事業が国益に貢献しており、「国益の親玉」であるとアピールした。煙草産業以外にも、共同運輸会社、帝国工業会社、大日本海産会社、ラムネ会社、東京食用鳥獣会社、東京取引所銀行などの創立に関与。1901年の長者番付では、服部時計店(現、セイコー)創業者の服部金太郎と共に最上位となった。 1901年5月から1903年6月まで東京市会議員を務める。1903年3月、第8回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から出馬し、新代議士として最高点で当選。しかし1904年3月、専売法制定によって営業権を政府に奪われて、1905年11月に廃業。その後は不遇となり、写真の入った位牌を販売するなどしていたものの、脳卒中のために半身不随となって晩年を過ごした。1万3000坪の自邸にて、脳溢血で没。東京都渋谷区猿楽町の旧居跡には、岩谷天狗山という地名が残っている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩谷松平」の詳細全文を読む
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