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岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 1964年1月25日)は、日本の宗教学者。東京大学図書館の館長、東京大学教授などを歴任。 == 来歴・人物 == 兵庫県明石市出身。宗教学者の岸本能武太の次男として生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)在学時より兄・武夫の影響によりサッカーを始めた〔「」p.47-51、1963年、2014年10月7日閲覧〕。なお、同中の同級生に美濃部亮吉、正田英三郎、芳賀檀、諸井三郎などがいた。 1921年に中学を卒業して第六高等学校 (旧制)に進学してサッカー部に入部し、第1回全国高等学校ア式蹴球大会にも出場した〔。1923年春に六高理科甲類を卒業し、兄・武夫も在学していた東京帝国大学へ進学〔。在学中はア式蹴球部に入部し、ポジションは武夫がフルバックだったのに対してフォワードであった(武夫は大学卒業後まもなく死去したと伝わっている)。なお、六高および東京帝大の同年卒業者に葉上照澄がいた〔。 1926年に東京帝大文学部宗教学科を卒業〔。1931年から3年間ハーバード大学に留学、ヨーガスートラの宗教学的研究『宗教神秘主義の研究』で文学博士。1934年東京帝大講師、45年3月助教授となり、戦後、連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局の宗教行政顧問を務め、日本の宗教文化一般について言論活動を行う。妻は宗教学科教授だった姉崎正治の長女。〔奥山倫明「岸本英夫の昭和20年」『東京大学宗教学年報』2008:〕 1947年、文学部宗教学宗教史講座教授に昇進。國學院大學日本文化研究所創設に加わる。 1954年、スタンフォード大学客員教授としてアメリカ滞在中、頭部に悪性腫瘍が発見される。以後、10年に及ぶ闘病生活を送り、数度にわたりガンの摘出手術を受け続ける。 1960年東大附属図書館長に就任。病をおして図書館改革に尽力するが、1963年、脳に転移し死の床につく。定年退官直前の1964年1月25日、東京都文京区の東京大学医学部附属病院で脳腫瘍により死去した〔「岸本英夫氏 訃報」 朝日新聞東京本社朝刊、1964年1月26日、2014年10月7日閲覧〕。同年2月、従三位および勲二等瑞宝章が贈られた〔「故岸本教授に瑞宝章」 朝日新聞、1964年2月5日、2014年10月7日閲覧〕。また、同年、『死を見つめる心』で毎日出版文化賞受賞。『岸本英夫集』全6巻がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岸本英夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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