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岸田稚魚 : ウィキペディア日本語版
岸田稚魚[きしだ ちぎょ]
岸田 稚魚(きしだ ちぎょ、1918年大正7年)1月19日 - 1988年昭和63年)11月24日 )は俳人。本名は順三郎。
== 経歴 ==
東京都北区生まれ。石田波郷に師事。父・録三郎は龍川の俳号で増田龍雨の門下。家は代々酒屋であった。
1936年、巣鴨商業学校卒業。1939年、のちに書家として活躍する兄・稚候に連れられ「馬酔木」(主宰:水原秋桜子)の新年句会に参加。翌年11月、「馬酔木」に投句を始める。1940年、結核の療養のため、茅ヶ崎の南湖院に入院、「療養知識」の俳句欄(選者:石田波郷)に投句。1943年、波郷の主宰誌「」に参加〔『花神コレクション〔俳句〕 岸田稚魚』(花神社、1994年)の「年譜」によれば、波郷に初めて会うのは2年後の1945年。東京・神田淡路町で開かれた句会の席である。このとき、「投げ出せし大足拝す夜寒かな」の一句をつくり、のちにこの一句について、「初対面の波郷先生は、病やつれはしていたが、しかしたのもしい師であった」(『岸田稚魚集』 俳人協会〈自註現代俳句シリーズ・Ⅰ期〉、1977年)と自註している。なお、石田波郷には句集『大足』(甲鳥書房、1941年)があり、「椎若葉わが大足をかなしむ日」(『風切』(一条書房、1943年)所収)の一句がある。〕。1948年、「鶴」休刊、波郷の命により、「寒雷」(主宰:加藤楸邨)に移る。1953年、「鶴」復刊、翌年「鶴」に復帰。
1968年、草間時彦加畑吉男などと超結社の勉強会「塔の会」を結成。1976年、同人誌「琅玕」(玕:王偏に干)を創刊。翌年、結社誌「琅玕」を創刊、主宰、外川飼虎椎名書子などが参加。
作風は、「鶴」の特色である境涯性だけに留まらず、洗練された都会的なスマートさや豊かな韻律性を特色とするものである。
1988年、脳血栓で死去。東京都江東区の龍眼寺に眠る。戒名は、翔鶴院稚魚居士。「琅玕」は手塚美佐が継承〔2013年2月終刊。〕。門下に、岡本高明小島健吉野裕之などがいる。
第29回新協美術展(1986年)で東京都知事賞を受賞するなど、写真の分野でも活躍した〔たとえば、以下のサイトで撮影した写真を見ることができる。「40周年記念出版俳人協会のあゆみ 」『社団法人俳人協会・俳句文学館』。〕。
== 受賞歴 ==
* 1957年 第3回角川俳句賞(作品「佐渡行」にて)
* 1973年 第12回俳人協会賞(句集『筍流し』にて)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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