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岸竹堂 : ウィキペディア日本語版
岸竹堂[きし ちくどう]
岸 竹堂(きし ちくどう、文政9年4月22日1826年5月28日) - 明治30年(1897年7月27日)は、日本の幕末から明治時代に活躍した日本画家。幼名は米吉、名は昌禄、は子和、通称は八郎。竹堂は号で、他に残夢、真月、虎林、如花など。岸派の4代目で、明治期の京都画壇で、森寛斎幸野楳嶺とともに3巨頭の1人に数えられた画家である。
== 略歴 ==
彦根藩(現彦根市代官役・寺居孫二郎重信の三男として彦根城下に生まれる。天保7年(1836年)数え11歳で地元の絵師で彦根藩士中島安泰に狩野派の手ほどきを受ける。天保13年(1842年)17歳の時、京狩野9代目の狩野永岳に入門するが、粉本主義の狩野派の指導法に疑問を感じ、翌年四条派の流れを組む岸派の岸連山に師事した。安政元年(1854年)29歳で連山の娘素子と結婚し、岸家の養子となる。この前後、二条城本丸御殿や御所造営に際して障壁画を描く。安政4年(1857年有栖川宮に出仕し、安政6年(1859年)11月には連山の子・岸九岳が未だ幼少なため岸家を継ぎ、竹堂の歩みは順風だった。画風も円山派長沢芦雪に私淑し、その構図法を学び一段と飛躍を見せる。
幕末の混乱期には、絵師としての生活が成り立たず困窮する。師連山も亡くなり、禁門の変で家を焼かれ、書きためた写生や模写の画稿も焼失してしまう。生活のため旅亭を営んだり、蚊帳屋、蝋燭屋などを始めるも、どれもうまくいかなかった。明治6年(1873年千總の西村總左衛門と出会い、京友禅の下絵を描いて糊口をしのいだ。竹堂の流麗な意匠により、千總の友禅は一世を風靡したという。
この成功で生活が安定した竹堂は、新たに大作にも取り組み始める。明治13年(1880年)6月、新たに設置された京都府画学校に教員に着任。明治17年(1884年)第二回内国絵画共進会に「晩桜図」を出品し3等銅賞、また同年の大阪絵画品評会に「池辺に菊図」で2等賞を受ける。翌年、高島屋常設画工室が設置されると、田中一華らとこれを担当する。明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会では「猛虎図」六曲一双で二等銀杯を受賞、各展覧会の審査員になるなど京都画壇の指導的画家として活躍した。
しかし、サーカスで見た実物の虎に衝撃を受け(それまでは実物の虎を日本で絵師が直接見ることはなかったため、日本画の虎図は大型の猫のような風貌をしていた)、画風が一変。明治25年(1892年)6月には、「虎図」に執念を燃やして打ち込むあまりに「虎が睨んでいる」と発狂し、一時永観堂癲狂院に入院する一幕もあったが、この仔虎を抱いた母虎の虎図はシカゴ万国博覧会で銅牌を受賞した。明治29年(1896年)6月30日には帝室技芸員となるが〔『官報』第3901号、明治29年7月1日。〕、翌年慢性胃炎のため72歳で没した〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁〕。墓は京都上京区本禅寺。墓碑銘は竹堂の死を悼んだ富岡鉄斎が誌した。
西洋絵画の陰影法遠近法を採り入れた鋭い写生技術を持ち、粉本に頼ることがなかった。動物画風景画、特にを得意とした。弟子に西村五雲加藤英舟藤島清漣浅江柳喬吉谷清聲吉岡華堂など。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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