翻訳と辞書
Words near each other
・ 岸辺露伴
・ 岸辺露伴 グッチへ行く
・ 岸辺露伴 ルーヴルへ行く
・ 岸辺露伴は動かない
・ 岸辺露伴は動かない -六壁坂-
・ 岸辺露伴は動かない 〜エピソード2:六壁坂〜
・ 岸辺露伴は動かない 〜エピソード5:富豪村〜
・ 岸辺露伴は動かない 〜エピソード6:密漁海岸〜
・ 岸辺露伴は動かない エピソード7 月曜日-天気雨
・ 岸辺駅
岸連山
・ 岸道三
・ 岸道郎
・ 岸部
・ 岸部おさみ
・ 岸部シロー
・ 岸部シローのオールナイトニッポン
・ 岸部一徳
・ 岸部修三
・ 岸部四郎


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

岸連山 : ウィキペディア日本語版
岸連山[きしれんざん]
岸連山(きしれんざん、文化元年(1804年) - 安政6年〔『京都御所障壁画』展図録182頁や『京(みやこ)の絵師は百花繚乱』展図録277頁では、明治4年(1871年)没と記されている。〕11月14日1859年12月7日))は、江戸時代後期の岸派絵師京都生まれ。旧姓、青木。幼名を徳次郎。のちに昌徳、徳などと名乗る。通称・文進。字は士道、士進。号は萬象楼。
== 経歴 ==
文化元年、青木新助の子として京に生まれる。岸駒岸良に師事する。岸駒の長女で岸良の妻・貞の先婿との娘・晴(春)と結婚、婿養子となり第三代岸派を継承した。文政6年(1823年)以降は父祖と同様、有栖川宮家に仕えた。安政2年(1855年京都御所障壁画制作では、御常御殿申口之間、御学問所雁之間・迎春南之間などを担当し、岸派の中では二代目の岸岱に次ぐ大きな仕事をしており、岸派の三代目に位置していたことが窺える。他に光明寺島原角屋、岸派とのゆかりが深い京都市北区天寧寺などに、作品の所蔵が確認されている。
中島来章横山清暉塩川文麟らと共に、幕末画壇の「平安四名家」と評された。画風初期は、装飾的な画風を特徴としたが、晩年は四条派の影響を受け、身近な花鳥や鳥獣を、淡彩を生かしつつ墨を駆使して描く温和な画風に変化した。連山は、岸駒の個性的表現から近代的な写生技法へ転換し、次代の竹堂へと続く岸派の近代化の契機となった絵師といえる。
墓所は上京区本禅寺。連山には九岳という息子がいたが後継者には選ばず、娘素子を弟子の岸竹堂と結婚させて跡を継がせた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岸連山」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.