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島地 黙雷(しまじ もくらい、天保9年2月15日(1838年3月10日) - 明治44年(1911年)2月3日)は、明治時代に活躍した浄土真宗本願寺派の僧。周防国(山口県)和田で専照寺の四男として生まれる。雨田、北峰、六々道人などと号す。西本願寺の執行長。 ==略歴== 萩で大洲鉄然とともに改正局を開き、真宗の宗徒を教育した。 1868年(明治元年)、京都で赤松連城とともに、坊官制の廃止・門末からの人材登用などの、西本願寺の改革を建白し、1870年(明治3年)に、西本願寺の参政となった。 1872年(明治5年)、西本願寺からの依頼によって左院視察団と同行、ヨーロッパ方面への視察旅行を行なった。エルサレムではキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。その旅行記として『航西日策』が残されている。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図った。また、監獄教誨や軍隊布教にも尽力した。 1888年(明治21年)、雑誌『日本人』の発行所である政教社の同人となる。 1892年(明治25年)、盛岡市の北山願教寺第25世住職となった。養嗣子の島地大等が第26世となる。 その一方で、女子文芸学舎(現:千代田女学園中学校・高等学校)を創立した。他、幾多の学校運営に参画した。 1911年(明治44年)歿、79歳。晩年は、実の息子がキリスト教に改宗する等の問題に苦しんだ。 1973年より全集全5巻が刊行された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島地黙雷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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