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島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 1945年8月17日)は、日本の小説家。本名は朝倉 菊雄(あさくら きくお)。高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。 == 略歴 == 北海道札幌市生まれ。2歳で父と死別、母に育てられる。家計を助けるために高等小学校を中退、銀行の給仕・玄関番などをしながら苦学した。 旧制北海中学卒業後、北大図書館などの勤務を経て、1925年東北帝国大学法学部の選科に入学。入学後間もなく東北学連に加盟、中心人物として仙台初の労働組合の結成にも携わる。翌年大学を中退し、日本農民組合香川県連合会木田郡支部の有給書記として農民運動に参加する。翌1927年には肺結核に苦しみながら、最初の普通選挙による県会国会選挙の活動に従事、この頃日本共産党に入党したと推定される。しかし1928年の三・一五事件で検挙され、起訴後の翌1929年に転向の声明を行った。1930年3月に有罪の判決を受けて服役するが、肺結核の悪化に苦しみ病監から隔離病舎に移され1932年3月仮釈放となる。 東京本郷で古本屋を営む実兄の家に落ち着き、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、少年時代から関心の深かった文学の世界に生きる決心をし、1934年転向問題を扱った処女作『癩(らい)』を「文学評論」4月号に発表し世評を呼ぶ。さらに『盲目』を「中央公論」に発表、短編集『獄』を出版して作家としての地位を確立した。1935年文芸懇話会の文学賞で、横光利一の『紋章』に次いで二位にあげられるが、松本学が左翼作家への授賞を拒否したため三位の室生犀星が繰り上がり受賞して、佐藤春夫が懇話会を脱退した。 1936年「文学界」同人。『癩』『盲目』に続いて転向問題に切り込んだ長編『再建』は発売禁止となったが、同じ1937年に発表した長編『生活の探求』は、知識階級の良心を守るものとして青年層を中心に多くの読者に迎えられベストセラーとなった。1937年以降、鎌倉に住む。1939年満州を旅行、優れたルポルタージュである『満州紀行』を出版。また、同じ1939年に雑誌「日本評論」で、北海道開拓史を題材とした長編『嵐のなか』の連載を開始〔『日本経済新聞』2013年11月2日、「文学周遊 島木健作「嵐のなか」 」〕。この作品は翌年未完のまま連載を打ち切ったが、晩年『土地』と改題して執筆を再開し、ライフワーク的な作品となった〔。 1941年には徴用されたが、身体検査の結果返された。1942年以降は床にあることが多く、病をおして長編『礎』を1944年発表したが、翌1945年の敗戦の2日後、鎌倉の病院で肺結核のため、老母や夫人、川端康成・小林秀雄・高見順ら、多くの文人仲間・友人に看取られて世を去った。遺作として『土地』『赤蛙』『黒猫』などの作品が発表された。墓は鎌倉の浄智寺にある。 没後60年経った2005年8月、ゆかりの深い神奈川県の近代文学館で、「没後60年島木健作展」が開催された〔『読売新聞』2005年8月17日付夕刊4面〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島木健作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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