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島津元 : ウィキペディア日本語版
佐分利信[さぶり しん]

佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982年9月22日)は、日本俳優映画監督。本名は石崎 由雄(いしざき よしお)。旧芸名に島津 元
渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、愛称は「サブリどん」。日活を経て松竹に入社し、上原謙佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、戦前松竹の看板スターとして活躍した。戦後は監督業にも進出し、『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表した。1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、晩年は映画界に戻って貫録のある演技を見せた。主な作品に『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。女優の黒木しのぶは妻、俳優の石崎二郎は長男、ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫に当たる。
==来歴・人物==

===映画界へ===
1909年(明治42年)2月12日北海道空知郡歌志内村(現在の歌志内市)に生まれる。父は明治中頃に北陸から移住し、夕張炭田の歌志内鉱に働く炭鉱夫だった〔キネマ旬報1979、p.252〕〔色川武大『なつかしい芸人たち』、新潮社、1989年、p.84〕。
1923年(大正12年)、歌志内尋常小学校を卒業すると中学教師になるため上京、神田三崎町の苦学生の溜まり場に入って、水道工事や道路工事などの肉体労働で学費と生活費を稼ぎながら正則英語学校や夜間学校に通うが、結局卒業することなく郷里に戻って、小学校の代用教員になる〔。半年後には神戸に行き、友人と婦人新聞の発行を計画して失敗、再び上京して職探しに奔走する〔。東京の兄の家に居候しながら映画を観たりするうち、映画関係の職を志す。
1929年(昭和4年)、日本映画俳優学校に入学する〔〔佐藤2007、p.286〕。1930年(昭和5年)、俳優学校の先輩である小杉勇八木保太郎を頼って京都に赴き、二人の伝手で日活に入社、監督部入りを望んだが、俳優になるよう勧められて現代劇技芸部(俳優部)に入る〔。翌1931年(昭和6年)、島津元を芸名に、内田吐夢監督『日本嬢』に左翼の闘士役で映画デビューする〔。続く『動員令』(熊谷久虎監督)で主役に抜擢され、それまでの俳優にない朴訥な演技で注目される〔。『キネマ旬報』誌上で北川冬彦は「俳優では、島津元の素朴な芸は、いままでの俳優が持っていない意思的なところを示しているのは特に眼を引いた」と評しているが〔、本人は後年に「僕は芝居に乗らない気持ちで出てるだけ。それが自然な演技が要求される映画だから、それなりに行けた」とそのときを語っている。1932年(昭和7年)、『さらば東京』で共演した黒木しのぶと同棲ののち結婚する。仕事する日は必ず玄関で握手してから出かけるなど大変な愛妻家だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐分利信」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shin Saburi 」があります。



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