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島津 忠恒(しまづ ただつね) / 島津 家久(しまづ いえひさ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。通称又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子で、最初の妻の亀寿は兄から引き継いだ島津義久の娘。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。 == 経歴 == 天正4年(1576年)11月7日、島津義弘の三男として生まれた。伯父島津義久に男児がなかったために島津家は父義弘が継いだが、長男が夭折、文禄2年(1593年)、次兄島津久保が朝鮮で病いにより陣没したため、又八郎が豊臣秀吉の指名により後継者と定められた。 後継者となる前は、蹴鞠と酒色に溺れる日々を送っており、朝鮮出兵中の義弘から書状で注意を受けていた。しかし、後継者になると父や伯父たち同様に本来備わった優れた武勇を発揮した。慶長の役では慶長3年(1598年)、父・義弘に従って8,000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せている(泗川の戦い)。 『絵本太閤記』によると、城に攻め寄せてきた、董一元率いる明の大軍4万余りに対して、逞兵1千を率い、城外に討って出て、縦横無尽に槍を突き立てたり、多くの明の兵士を切り捨てたりしたという。城を守っていた大将の義弘と兵5千も、機を見て城外に討って出て、遮二無二突き破り、明人の首3万を討ち取ったという〔このエピソードは寛文10年(1670年)頃に薩摩藩家老・島津久通(島津忠長の孫)が編纂した『征韓録』にも所収されている。〕。この後、明人・朝鮮人は、島津義弘の軍威を恐れ「怕ろし〔怕ろし=恐ろしいの意味。〕のしまんず」と云ったとされる。 ただ、態度や性格が直ったわけではなく、朝鮮の役でも忠恒の横暴に苦しんだ雑兵が朝鮮側に逃亡したという記録がある。 慶長4年(1599年)、専横の傾向ありとして対立していた家老伊集院忠棟を京都伏見の島津邸で自らの手で謀殺し、同年に国許で反乱(庄内の乱)を起こしたその子伊集院忠真とは一旦は和解して油断させた上で、慶長7年(1602年)、日向国の野尻で催した狩りの最中に射殺し、供の者も誅殺した。これには徳川家康の内諾があったとするのが定説で、忠真は忠恒(家久)の妹婿で、義兄弟の関係にあり朝鮮の役でも共に闘った仲でもあったが、。 慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで父の義弘が西軍に属したため、講和交渉をしていた伯父の義久に代わり、徳川家康に謝罪のために上洛し、本領を安堵された。同年、薩摩の内城に入り、父・義弘と伯父・義久より家督を継いだが、実権は元和5年(1619年)までは父・義弘に握られていた。 慶長11年(1606年)、徳川家康から偏諱を受け、家久と名乗った。 慶長14年(1609年)、3,000の軍勢を率いて琉球に出兵し、占領して付庸国とした(琉球との融和政策を図る義久とは対立していたとされている)。また、明とも密貿易を執り行い、鹿児島城(鶴丸城)を築いて城下町を整備したり、外城制や門割制を確立する〔など薩摩藩の基礎を固める一方で、幕府に対しては妻子をいちはやく江戸に送って参勤交代の先駆けとした。 慶長18年(1613年)、奄美群島を琉球に割譲させ、代官や奉行所などを置き、薩摩藩の直轄地とした。 元和3年(1617年)、将軍徳川秀忠から、松平の名字を与えられ、薩摩守に任官される〔村川浩平 『日本近世武家政権論』 日本図書刊行会、2000年10月、pp.103、141-142。ISBN 9784823105289。〕。 寛永15年(1638年)、死去。享年64。殉死者が9名出ている〔。家督は次男の光久が継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津忠恒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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