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島津 忠昌(しまづ ただまさ)は、室町時代後期の大名。島津氏の第11代当主。 == 生涯 == 寛正4年(1463年)、薩摩国などを治めた守護大名で島津氏第10代当主・島津立久の子として誕生。 初めは出家して市来の竜雲寺に入り、源鑑と称した。 文明6年(1474年)4月、父・立久の死去により還俗し、家督を継いで当主となる。しかし、若年であったため島津氏内部で内乱が発生し、「国中騒乱」といわれるほどの事態となる。さらに伊東氏や相良氏などからもそれに付け込まれて侵攻を受けた。 文明16年(1484年)、忠昌はその頃に病を得ていたが、飫肥に在った新納忠続が伊作家の島津久逸と伊東氏の連合軍に挟撃されると、病身を押して出陣しようとする。京より招いていた医者・竹田昭慶は思い留まらせようとするが、忠昌は「身を愛するの故をもって、国の大事を廃せむや」と述べて昭慶を伴い出陣〔 『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年)〕、文明17年(1485年)、伊東氏の当主伊東祐国を日向国飫肥城の戦いで破り戦死させ、久逸を降伏せしめた。しかし、祐国の子・伊東尹祐による報復を恐れて明応4年(1495年)に和睦している。 忠昌は軍事よりも文学に優れ、文明10年(1478年)には桂庵玄樹を招聘して朱子学を講じ、薩南学派の基礎を築いた。また、琉球や李氏朝鮮とも積極的に通交し貿易を奨励。さらには雪舟に師事し、明にも留学した高城秋月を招き水墨画を普及させるなど薩摩国における文化を興隆させた。 しかし永正5年(1508年)、清水城において「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と西行の歌を辞世として自殺した。享年46。理由は狂気や島津氏の内乱に苦しんだためともいわれている。墓所は初め興国寺(鹿児島県鹿児島市冷水町)、後に福昌寺(鹿児島県鹿児島市池之上町)へ改葬された。跡を長男の島津忠治が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津忠昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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