翻訳と辞書
Words near each other
・ 島津忠方
・ 島津忠昌
・ 島津忠時
・ 島津忠景
・ 島津忠朗
・ 島津忠朝
・ 島津忠栄
・ 島津忠欽
・ 島津忠治
・ 島津忠洪
島津忠清
・ 島津忠済
・ 島津忠温
・ 島津忠温 (曖昧さ回避)
・ 島津忠濟
・ 島津忠直
・ 島津忠秀
・ 島津忠秀 (越前家)
・ 島津忠章
・ 島津忠綱


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

島津忠清 : ウィキペディア日本語版
島津忠清[しまづ ただきよ]

島津 忠清 (しまづ ただきよ、元亀2年(1571年) - 元和6年1月5日1620年2月8日))は、薩摩国島津氏庶流(薩州家)の武将。通称は又助。官位は備前守。父は島津義虎。母は御平(島津義久の娘)。
義虎の三男として誕生する。しかし文禄2年(1593年)に長兄の忠辰豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、弟の重富(義虎五男)、忠豊(義虎六男)と共に小西行長に身柄を預けられる。そこで行長の家臣である皆吉続能の娘・立野殿(洗礼名カタリナ、小西行長の元側室)を娶り、長女と長男を授かった。この妻は再婚であり、連れ子として娘(妙)がおり、喜入忠政の後室となっている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に小西行長が処罰され、宇土を召し上げられると、忠清は加藤清正を頼るべく熊本に入ったが、慶長14年(1609年12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻った。その後、長男は新納久元の後継となり新納忠影と名乗った。長女は島津家久の側室となり、薩摩藩2代藩主・島津光久北郷久直島津忠紀らを生んだことで家族の地位は向上するが、のちに忠清の死後、妻は隠れキリシタンとして連れ子の娘(喜入忠政室)およびその娘共々種子島に流刑となる(堅野カタリナ)。
元和6年(1620年)に病没した。法名は如岳院節翁玄忠大禅定門。忠影以外に男子がいなかったため、跡目は忠影の孫・新納久珍の次男である新納久基が継いだ。
== 参考文献 ==

*『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「島津忠清」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.