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島津忠豊 : ウィキペディア日本語版
島津豊久[しまづ とよひさ]

島津 豊久(しまづ とよひさ)は、安土桃山時代武将島津氏の家臣。名は初めは島津忠豊で後に改名した。
== 生涯 ==
元亀元年(1570年)、島津家久の子として誕生した。
天正12年(1584年)3月の沖田畷の戦いに初陣。この戦いの直前の早朝、父家久は、15歳の豊久に「あっぱれな武者振り、ただ上帯の結び方はこうするのだ」と結び直して脇差でその帯端を切り、「よく聞け。もし軍に勝って討死しなければ、この上帯は我が解こう。だが今日の軍で屍を戦場に晒す時は、切った上帯を見て、島津が家に生まれた者の思い切ったる所作と敵も知り、我もその死を喜ぼう」と言ったと言う。沖田畷において家久・豊久父子は奮戦し、勝利して無事に帰還した後、家久は豊久の帯を解いたといわれる〔『常山紀談』〕。
同年4月14日に肥後国にて元服を果たした。
天正15年(1587年)、父家久が死去し、その跡を継いで日向佐土原城宮崎市佐土原町)の城主となった。この年、島津氏豊臣秀吉に降伏し、家久は豊臣氏の陣中に赴いて帰った後に急死したため、暗殺や毒殺ともいわれるが、あらぬ疑いを避けるためか秀吉は豊久に特別に所領を与えるよう島津義弘に命じたといわれる。また、父の死後は伯父の義弘が実子同様に養育したといわれ、そのために義弘に恩義を感じていたという説もある。その後、豊臣氏による小田原征伐や、朝鮮出兵での従軍で豊久が敵兵6万に対し500人あまりで籠城し撃退に成功したとされる〔岩川拓夫「最強イケメン島津豊久」生き方に魅力 『南日本新聞』2016年1月1日、7面。〕文禄・慶長の役などに従軍し各地を転戦した。また、慶長4年(1599年)に起こった庄内の乱に出陣し武功を上げた。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起ると伯父の義弘と共に西軍として参陣した。しかし、義弘は自らが提案した夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加しなかったといわれていたが、この逸話は『落穂集』という二次的な編纂物に書かれたものであり、また島津方の史料にも夜討ちに関する記事がほとんど見えないことから、史実だと断じるわけにはいかない〔桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里―』(学研パブリッシング、2010年)107-112頁〕。石田三成の家臣である八十島助左衛門が助勢を要請に来た際、下馬せずに馬上から申し出た事に激怒し、怒鳴り返して追い返したと伝わる。
やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立する形となり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めた。しかし豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父義弘が生きて帰る事が必要だと感じ『本藩人物誌』〔桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里―』(学研パブリッシング、2010年)234頁〕、「天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と述べ〔『惟新公関原御合戦記』〕撤兵を促した。これで意を決した義弘は、家康本陣を掠める形で伊勢街道方面に撤退することにした(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において殿軍を務めたが、東軍の追撃は激しく島津隊も多数の犠牲を出した。豊久は義弘の身代わり(捨て奸)となって討死した。一説によると、豊久は重傷を負い、上石津の樫原あたりで死亡し、近くの瑠光寺に埋葬されたという伝承もあり、同寺には墓が現存している〔桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里―』(学研パブリッシング、2010年)148頁〕。いずれにせよこの豊久らの決死の活躍で、義弘は無事に薩摩に帰還する事ができたのであった〔桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里―』(学研パブリッシング、2010年)235頁〕。
戦後、領地の佐土原は無嗣断絶の扱いでいったん徳川氏に接収され山口直友の与力庄田安信を在番させている、のちに一族の島津以久が入った〔桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里―』(学研パブリッシング、2010年)235頁〕。豊久には子供が無く、家は姪の婿である喜入忠栄が相続した。しかしその系統も寛永元年(1624年)に断絶。後に18代当主・島津家久(忠恒)の子・久雄が継嗣に入り、永吉島津家として残る。
豊久の鎧は永吉島津家当主・島津久芳が安永6年に入手し、永吉島津氏の菩提寺・天昌寺に納められたとされており〔「永吉島津家文書」一四三号〕、現在は尚古集成館に保管され〔「島津豊久 」 尚古集成館〕〔「さつま人国誌「島津豊久の最期と埋葬地・下」 」 『南日本新聞』2014年1月13日〕、日置市中央公民館にはその写しが展示されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shimazu Toyohisa 」があります。



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