翻訳と辞書
Words near each other
・ 島津忠義
・ 島津忠興
・ 島津忠興 (薩州家)
・ 島津忠良
・ 島津忠良 (曖昧さ回避)
・ 島津忠行
・ 島津忠裕
・ 島津忠親
・ 島津忠豊
・ 島津忠賢
島津忠辰
・ 島津忠重
・ 島津忠長
・ 島津忠長 (播磨家)
・ 島津忠長 (都城島津氏)
・ 島津忠隆
・ 島津忠隣
・ 島津忠雅
・ 島津忠高
・ 島津恵梨花


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

島津忠辰 : ウィキペディア日本語版
島津忠辰[しまづ ただとき]

島津 忠辰(しまづ ただとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将薩摩島津氏の分家・薩州家7代にして最後の当主。
== 略伝 ==
豊臣秀吉九州征伐では肥後口にあり八代南方の高田(こうだ 現在の肥後高田駅近辺)を守っていたが、肥前島原有馬晴信の裏切りによって本領出水に撤退〔島津氏側の史料では「忠辰が勝手に秀吉に寝返ったばかりか、秀吉軍の道案内までした」と強烈に非難しているものが多い。但し、この話は同時代史料には見られず、後世に書かれた史料にしか出てこないため、信憑性は薄いとされている。〕。天正15年(1587年)4月、秀吉に降伏し本領を安堵された。
文禄2年(1593年)、朝鮮出兵の際には島津義弘に属して出兵することになっていたが、義弘と陣立を別にしてくれるよう秀吉に直訴。秀吉は忠辰の願いを聞き入れなかったため、やむなく義弘とともに玄界灘を渡ったものの病気と称して上陸しなかった。この忠辰の行動は秀吉の激怒をかい、同年5月1日、肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易を申し渡された(忠辰の領地は細川幽斎石田三成に分与された)。それからほどなくして、朝鮮加徳島の小西陣中にて病死した。享年28。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「島津忠辰」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.