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島津治子[しまづ はるこ] 島津 治子(しまづ はるこ、1878年(明治11年)7月7日 - 1970年(昭和45年)2月14日)は、男爵島津長丸(旧宮之城領主)の妻。島津珍彦の次女。母は島津斉彬の四女・典子。正五位勲四等。神政龍神会事件で不敬罪に問われ検挙された〔『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』第八章「元皇后女官長が不敬罪で逮捕」〕。 == 人物 == 明治22年(1889年)華族女学校に入学し、同28年(1895年)卒業。島津久治の遺児・長丸と結婚し、二男四女を産む。夫長丸は教育熱心で、特に女子教育の必要を痛感し、29年(1896年)鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校を創立した。40年(1907年)治子は同校校長に就任、さらに校舎を清水町に移転、入学者も増加して発展を遂げ、鹿児島の私立学校の先駆的な役割を果たした。昭和5年(1926年)皇后官女官長に就任。翌年(1927年)2月夫と死別。職を辞して大日本婦人連合会理事長に就任した。昭和11年(1936年)警視総監石田馨の指揮で不敬罪に問われ逮捕。精神病者として入院し、不起訴処分となる。92歳で死去。 夫の在世中、宮之城出身の学生を自宅に呼び歓談するのを楽しみにしていたという。 長女・広子は三井高修(元三井化学会長)、次女・泰子は公爵・二条厚基(二条基弘の次男)に嫁いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津治子」の詳細全文を読む
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