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島田 嘉七(しまだ かしち、1895年8月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.272-273.〕〔揚幕社, p.38-39.〕〔蒲田, p.73.〕〔映画世界社, p.143.〕〔''島田嘉七''、''jlogos.com'', エア、2013年3月25日閲覧。〕〔''島田嘉七''、日本映画データベース、2013年3月25日閲覧。〕〔''島田嘉七''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月25日閲覧。〕〔''島田嘉七''、日活データベース、2013年3月25日閲覧。〕。本名同じ〔〔〔。旧芸名嵐 璃丈(あらし りじょう)〔。新派・旧派を経て、日活向島撮影所の新派女形となり、男役に転向後もその美貌により人気を得たスター俳優として知られる〔。 == 人物・来歴 == 1895年(明治28年)8月14日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる、とされている〔〔。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)には、生年月日は「明治廿六年八月十九日」(1893年8月19日)、生地は東京市下谷区谷中坂町52番地(現在の台東区谷中1丁目)である旨が記されている〔。『裸にした映画女優』の島田の項には「明治二十七年八月十四日」(1894年8月14日)、「東京の深川で生る」(深川区、現在の江東区深川地区)と記されている〔泉沢, p.195-197.〕。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』の島田の項には生年月日は冒頭の通りだが、「東京京橋に出生」(京橋区、現在の中央区の日本橋以外の地区)と記されている〔。幼少時から「女の子のように可愛らしく役者の子のようだ」と言われて育つ〔。 旧制小学校を卒業し、下谷区上野西黒門町11番地(現在の台東区上野1丁目)にあった旧制・東京中学校(現在の東京高等学校)に進学したが、同校を中途退学して伊井蓉峰の一門に加入し、数え年15歳になる1909年(明治42年)に新富座で初舞台を踏む〔〔〔。その後、初代村田正雄の一座に参加して、全国を巡業する〔。大阪に移り、関西歌舞伎の四代目嵐璃珏の一座に参加、「嵐 璃丈」を名乗る〔〔〔。 1919年(大正8年)6月、日活向島撮影所に入社、満23歳にして映画俳優に転向、同年7月14日に公開された『破れ筏』(監督不明)、同年9月27日に公開された『恋の津満子』(監督小口忠)等に女形として出演する〔〔〔〔〔。のちに男役に転向し、東猛夫、衣笠貞之助、五月操らの女形の相手役として、人気を得る〔。1922年(大正11年)12月、田中栄三が監督した『京屋襟店』に出演、完成後の試写後の夜に、藤野秀夫、衣笠貞之助、荒木忍、東猛夫ら幹部俳優13名が集団退社の辞表を提出、石井常吉の計画によって国際活映(国活)に引き抜かれる事件が起きるが、島田もこれに連座し、国活に電撃的に移籍している〔〔田中, p.363-366.〕〔佐相, p.106.〕。 1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』によれば、当時、島田は同書が「生地」として掲載するのと同一の地番に父・姉とともに住み、身長は5尺3寸1分(約160.9センチメートル)、体重13貫300匁(約49.9キログラム)、常用煙草は敷島で、洋装を好み、当時の島田にとっての代表作は、『八幡屋の娘』(監督田中栄三)における「時子」役、『嵐の舞』(監督不明)における「遠山省三」役であるという〔。同年3月、国活が製作を停止すると、同社を退社し、同年5月、京都に移り、等持院に撮影所を持つマキノ映画製作所に移籍した〔〔〔〔。マキノ、および東亜キネマに吸収されてからも引き続き等持院撮影所では、向島時代に先輩女形であった衣笠貞之助が監督に転向し、衣笠監督・島田主演で数々の作品を生み出し、スター俳優として活躍した〔〔〔。 1925年(大正14年)春には、東京に戻って松竹蒲田撮影所に移籍、満29歳となった同年5月1日に公開された『椿咲く国』や同31日に公開された『地獄谷』(いずれも監督吉野二郎)を初めとして、1931年(昭和6年)までの間、多くの作品に主演、もしくは栗島すみ子の相手役俳優として出演した〔〔〔〔。飯田蝶子、森野五郎が幹部に昇進した1927年(昭和2年)1月には、粂讓、筑波雪子、松井千枝子とともに準幹部に昇進した〔〔松竹, p.238.〕。トーキーの始まる1932年(昭和7年)以降は、脇役に回ることが増えた〔〔〔。同年12月1日に公開された時代劇『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』ならびに『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』にも出演し、上杉綱憲を演じている〔〔。満40歳を迎えた1935年(昭和10年)10月15日に公開されたサウンド版『永久の愛』(監督池田義信)に「医者富谷」役で出演して以降の出演記録は見当たらない〔〔〔。 戦中は大陸各地を慰問したが帰国後に罹災し、1945年(昭和20年)5月に長野県更級郡へ疎開した〔『アサヒグラフ』 1949年6月1日号。〕。戦後も同地で石鹸会社に勤務していたが〔、以降の消息は不明である〔〔〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島田嘉七」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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