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島田療育センター : ウィキペディア日本語版
島田療育センター[しまだりょういくせんたー]
島田療育センター(しまだりょういくセンター)は、東京都多摩市にある重症心身障害児施設である。
1961年(昭和36年)に開設。日本初の重症心身障害児対象の施設である。開設当初は「島田療育園」という名称であった。2012年(平成24年)からは「児童福祉法による医療型障害児入所施設」(18歳未満)と「障害者自立支援法による療養介護」(18歳以上)の2つの機能を併せ持ち、重症心身障害児とそのような障害を持った大人のケアと生活の支援を行なっている。また医療法による病院でもある。
初代園長は、小林提樹(ていじゅ)〔日本心身障害児協会島田療育センター『愛はすべてをおおう: 小林提樹と島田療育園の誕生』中央法規出版 2003年〕〔小沢浩『愛することから始めよう 小林堤樹と島田療育園の歩み』大月書店 2011年〕である。
== 沿革 ==
開設にあたっては、電源開発元総裁の内海清温が募金集めに奔走し、1,500万円の寄付を集めた。用地の確保にあたっては、日本遊技場組合(現・日本遊戯関連事業協会)の元組合長である島田伊三郎が、自身の子どもが重度のてんかん発作を伴う知的障害だったこともあって尽力した。1956年(昭和31年)、千葉県八千代台に候補地を見つけたが、障害児施設である点がネックとなり頓挫。結局、現在の施設がある南多摩郡多摩村(当時)に用地を確保した。当時の児童福祉法では、重症障害児は対象外だったため、社会福祉法人ではなく、寄付に対する免税措置のない財団法人としてのスタートになった。その結果、寄付が集まりにくくなり、慢性的な財政難を抱えることになった。
1964年(昭和39年)、自身も障害児の娘を抱える作家の水上勉が、雑誌『中央公論』の誌上に「拝啓、池田総理大臣殿、」と題して法的な障害者保護を訴える手記を発表する。これが反響を呼んで、1967年(昭和42年)から、重症障害児が法的に保護されることになり、補助金も拠出されるようになった〔日本初の重度心身障害児施設を支えた人々 - 日本遊戯関連事業会〕。

この年、小林園長は、日本医師会最高勲功章を受賞した。
1965年(昭和40年)、秋田県の障害児童が当院への入所を希望しながら要員不足のためにそれが実現しない実状が、秋田魁新報で報じられる。これをきっかけに、秋田県から10- 20歳代の女性15人が要員として就職する〔きびしい"天使の道"につくす - 秋田県広報誌「あきた」通巻38号(1965年7月1日)〕。翌年以降も秋田からの就職は続き、1967年には彼女たちを取り上げた『おばこ天使 ある青春・重度障害児と共に生きる』(藤原陽子、文芸市場社)という書籍が刊行され、ロス・プリモス倍賞美津子の歌唱で「おばこ天使の唄」という歌(作詞・藤原陽子)も日本クラウンから発売された。彼女たちはその後、秋津療育園、東京小児療育病院、大阪の枚方療育園にも就職するようになった〔『秋田魁新報120年史』1995年 p.810〕。
1975年(昭和50年)、飛田茂雄、稲葉吉春、清水栄次郎らが中心となり、13名の有志で「島田療育園を守る会」が発足。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「島田療育センター」の詳細全文を読む



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