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島田篁村[しまだ こうそん] 島田 篁村(しまだ こうそん、天保9年8月18日(1838年10月6日) - 明治31年(1898年)8月27日)は明治時代の儒学者・漢学者。幼名は源六郎、諱は重礼、字は敬甫。東京帝国大学文科大学教授正四位勲三等文学博士。本姓は源氏。 江戸時代の伝統的な環境に学問形成の基盤を置いた最末期の学者で、特に海保漁村の考証学的学風を受け継ぎ、次世代の漢学へと橋渡しを行った。その活動は著述という形ではあまり残っていないが、自塾双桂精舎や東京大学等で多くの弟子を育成し、教育行政にも少なからず関わった。 == 生涯 == 武蔵国荏原郡下大崎村(東京都品川区大崎)名主島田重規の7男2女の六男に生まれ、幼名を源六郎とした〔塩谷時敏撰「篁村島田先生墓碑銘」『篁村遺稿』巻上〕。早くに両親を失い、長姉に育てられた〔。兄が『先哲叢談』を読んでいると聞き、自分も学問を志した〔荻原善太郎編『日本博士全伝』岡保三郎、1888年〕。嘉永5年(1852年)大沢赤城に学び、次いで海保漁村、安政6年(1859年)安積艮斎に業を受けた〔。家には財産が残っておらず、長姉が機織り、紡績の内職をして学費を支えた〔。 文久3年(1863年)昌平坂学問所に入学、慶応元年(1865年)同校大試甲科に合格し9月助教に就任、慶応3年(1867年)12月外国奉行調並に就任するも、程なく辞職した〔。越後国村上藩主内藤信民に禄100石を以って賓師に迎えられた〔。因幡国鳥取藩支藩の池田氏も厚禄を以って招こうとしたが、篁村は固辞し、後に池田氏の方から学びに赴いた〔。 明治2年(1869年)、下谷長者町に私塾双桂精舎を構え、翌年練塀町に移った〔。その後、高等師範学校、女子師範学校、学習院、東京大学で教鞭をとった。明治17年(1884年)には加藤弘之に建議して、文学部に古典講習科漢書課を設置した〔干河岸貫一編『明治百傑伝』青木嵩山堂、1902年〕。明治29年(1896年)より、尋常師範学校等教員検定委員、尋常中学校教科細目調査委員を務め、修身科目に携わった〔。明治31年(1898年)8月27日、小石川区の自邸で病死〔。墓所は谷中天王寺。死後長男により『篁村遺稿』が出版された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島田篁村」の詳細全文を読む
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