翻訳と辞書 |
崎谷誠一[さきや せいいち]
崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は、広島県似島出身の元サッカー選手〔河野徳男『広島スポーツ史』、財団法人広島県体育協会、1984年、322-323頁。〕〔『広島県高体連 サッカー部のあゆみ』井上國三編 広島県高体連サッカー部、2000年、209頁。〕。 == 来歴 == 山陽高等学校でフォワード、あるいは攻撃的MFとして2年時の1967年、全国高等学校サッカー選手権で優勝(洛北と第二延長を含む120分0-0で両校優勝)〔〔〔『栄光の足跡 広島サッカー85年史』広島サッカー85年史編纂委員会 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、69頁。〕、国体3位〔。2年生でユース日本代表に選出される〔『週刊サッカーマガジン』2011年6月14日号 、70頁。〕。3年時の翌1968年には主将として全国高等選手権準優勝(0ー1初芝)〔『『栄光の足跡 広島サッカー85年史』69頁。〕。翌1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で〔『栄光の足跡 広島サッカー85年史』71頁。〕、崎谷は八幡製鉄、山陽の同級・河野和久は日立、県立広島工業の荒井公三は古河電工、小原秀男は東洋工業、修道の大谷栄一は三菱重工、広島市商の河本博は八幡製鉄と、日本サッカーリーグ(JSL)に進み、いずれもチームの主力選手として活躍した〔。また、皆実の平田生雄は永大産業に所属した後、少年サッカー指導者として活躍している〔〔他の2人は、木本積(修道-中央大)、平田和資(山陽-八幡)(『栄光の足跡 広島サッカー85年史』71頁)。〕。 崎谷は高校卒業後、八幡製鉄サッカー部入りし主力選手として活躍した。八幡製鉄には山陽高から8人が進んだ〔『広島スポーツ100年』、中国新聞社、1979年、260頁〕。日本代表としてもミュンヘンオリンピック予選など、国際Aマッチ3試合に出場している。 現在は、Jリーグのマッチコミッショナーを務めている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「崎谷誠一」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|