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崔 庸健(チェ・ヨンゴン、1900年 - 1976年9月19日)は、朝鮮半島の独立運動家で、 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家、軍人。朝鮮人民軍初代総司令官、初代民族保衛相。第2代最高人民会議常任委員会委員長として同国の国家元首を務めた後、1972年12月の新憲法制定後は国家主席の金日成に次ぐ初代国家副主席に任じられた。号は石泉。最終階級は朝鮮民主主義人民共和国次帥。 == 経歴 == 大韓帝国時代の1900年、平安北道塩州郡の農家に生まれた〔和田(1992年)、219ページ〕。五山学校に入学するが中退〔和田(1992年)、220ページ〕。1919年に中国へ渡り、。1922年、雲南陸軍講武堂に転入。卒業後は国民革命軍に参加。1925年、崔秋海の名で黄埔軍官学校の訓練隊長となった。1926年3月、第5期区隊長。同年、中国共産党に入党し、北伐に参加。1927年、特務営第2連連長として広州起義に参加。 1928年に満洲に派遣され、崔石泉の名で活動。中共党員のまま朝鮮共産党に入党し、金志剛の名で火曜派満州総局軍事部長を務めた〔和田(1992年)、61ページ〕。1930年より饒河県で組織建設と武装闘争を展開、東北人民革命軍4軍4団参謀長となる。1936年、東北抗日聯軍が組織されると4軍2師参謀長となり、次いで7軍参謀長、7軍代軍長、第二路軍参謀長として活動。抗日聯軍の活動が困難になるとソ連領に脱出。金日成らと合流する。 1945年8月にソ連が対日参戦し、第25軍が北部朝鮮に進軍すると、9月末に朝鮮に帰国〔下斗米(2006年)、47ページ。〕。1946年2月、北朝鮮臨時人民委員会が設立されると、その軍事部門の指導者となり〔下斗米(2006年)、62ページ。〕、同年10月9日に保安局長に就任した〔中川(2001年)、22-23ページ(注7)〕。1946年2月に朝鮮民主党の党副委員長を経て党委員長になり、労働党の衛星政党に改編した。同年末には保安局長を退き、保安幹部訓練大隊司令官として軍隊建設に専念し〔中川(2001年)、5ページ・23ページ(注7)〕、1948年2月8日に朝鮮人民軍が創設されると初代人民軍総司令に就任した。1949年に初代民族保衛相(国防部長)になる。 朝鮮戦争勃発直後の1950年6月26日、金日成を委員長とする軍事委員会が新設され、同委員に任命〔磯﨑(2003年)、46ページ〕。さらに、金日成朝鮮人民軍最高司令官の下、崔庸健が副司令官として戦争を指導した。同年、副首相になる。1953年2月7日、最高人民会議常任委員会政令により、「朝鮮人民軍の強化と朝鮮戦争における功績」を認められ、朝鮮民主主義人民共和国次帥の称号を授与された 1955年4月の朝鮮労働党第2期中央委員会第10回総会において、金日成の推薦により朝鮮労働党の党中央委員および政治委員会委員に抜擢され、朝鮮民主党委員長を辞任した〔下斗米(2006年)、165ページ〕。さらに、同年12月の第11回総会において、金日成による強行人事により朝鮮労働党の党中央委員会副委員長に就任した〔下斗米(2006年)、182-183ページ〕。 1956年4月の朝鮮労働党第3回党大会において党副委員長、党常務委員会委員に再選出され〔和田(1992年)、370-372〕、党内序列第5位となる〔下斗米(2005年)、28ページ〕。1957年9月20日、最高人民会議常任委員長に就任し、国家元首の職責を担う。ただし、北朝鮮の政治構造において、朝鮮労働党が国家機構を指導し、首相が政府を統括するため、朝鮮労働党委員長兼首相の金日成が同国の最高指導者であり、崔は儀礼的な国家元首としての職責を果たすのみであった。1972年12月27日に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が公布され、国家元首として国家主席が新設された。翌日、金日成が国家主席に就任し、崔は国家副主席に任命された。 1976年9月19日、病没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「崔庸健」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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