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崔用徳 : ウィキペディア日本語版
崔用徳[ちぇ よんどく]

崔 用徳(チェ・ヨンドク、、1898年9月19日〔『朝鮮戦争/韓国篇 中巻』では1894年としている。〕-1969年8月15日)は日本統治時代の朝鮮独立運動家であり大韓民国軍人韓国空軍創設者の1人。重慶帰りではの次に位する人物であった。本貫は慶州崔氏()。は滄石()。別名は崔容徳崔龍徳。中国名は崔滄石(崔沧石、ツイ・ツァンシー)。
== 人物 ==
1898年、漢城府城北洞に崔益煥の三男として生まれる。1908年に美洞鳳鳴学校に入学。15歳の時に北京の匯文中学へ留学するが、のちに中退。崇実中学を卒業する。
1916年、段祺瑞軍閥傘下の軍官学校を卒業。参戦軍第2師に配属される。 1920年、徐曰甫の紹介で保定航空学校に入校。同期に石邦藩がいた。1922年に徐曰甫と共に義烈団に加入して爆弾の運搬等を行った。義烈団に政治的対立が発生すると、義烈団を離脱し徐曰甫や宋虎などと共に申義団を結成した。
1924年、呉佩孚軍閥航空隊に所属して第2次奉直戦争に参加。北伐の時は孫伝芳軍閥航空隊に所属しており、1926年に援陝航空支隊(隊長:鄒慶雲)隊付、1927年には五省連軍航空司令部航空隊の飛行員であった。
敵対していた国民革命軍と戦う意思は無く、1927年春に合流して国民革命軍航空処の飛行員となり、北京侵攻直前に水上機隊(隊長:劉国楨)副隊長となる。北伐後は航空第4隊(隊長:楊官宇)副隊長、水上機隊隊長、南昌基地の教官などを歴任した。航空第4隊副隊長の時には中原大戦に参加している〔。1932年、航空第4隊隊長として第一次上海事変に参加。1935年、少校。1937年、中校。
日中戦争では空軍南昌総站站長〔。1938年5月に中央訓練団陸空連絡訓練班(主任:朱暉日)副主任。1940年、中国陸軍大学卒業。
1940年10月から韓国光復軍総司令部で活動。秘書処長(1940.10~)、総務処長(1940.11~)、高級参謀(1943.7.6~)、参謀処長(1944.11~)を歴任。また大韓民国臨時政府では軍務部航空創設委員会主任、空軍設計委員会副主任、韓国独立党中央常務執行委員などを務めた。
終戦後は韓国光復軍北平弁事処長および華北韓僑宣撫団軍務組主任として活動。1946年7月に38度線以南に帰国し、同年8月に航空関係者を集めて韓国航空建設協会を結成した。1948年4月に航空幹部要員として歩兵学校へ入校して同年5月に卒業後、少尉に任官。同年7月に陸軍航空基地司令官。同年8月から1950年5月まで国防部次官を務めた。
1950年5月、空軍士官学校校長、任准将。
1951年7月、空軍本部作戦参謀副長兼任。
1952年5月、任少将。同年12月、空軍参謀総長。
1953年1月、任中将。
1955年、空軍参謀総長顧問。
1956年1月、予備役編入。
1960年、逓信部長官。
1961年、中華民国大使。
1962年、建国勲章独立章授与。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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