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嵯峨実愛 : ウィキペディア日本語版
正親町三条実愛[おおぎまちさんじょう さねなる]

正親町三条 実愛(おおぎまちさんじょう さねなる、文政3年10月30日1820年12月5日) - 明治42年(1909年10月20日)は、日本江戸時代後期から明治時代の公卿政治家麝香間祗候。改名して嵯峨実愛
== 生涯 ==
文政5年(1822年)に叙爵。以降累進して、侍従右近衛権少将・右近衛権中将・新清和院別当・奉幣使次官。嘉永元年(1848年)に従三位参議となって公卿に列する。丹波権守権中納言踏歌節会外弁・右衛門督などを歴任した。安政2年(1855年)の孝明天皇遷幸の際、馬副6名・舎人2名・副舎人1名・雑色6名・居飼1名・傘1名を随えて供奉している。
安政5年(1858年)、江戸幕府朝廷に対して通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対論を展開した。これによって井伊直弼による安政の大獄に連座する。安政6年(1859年)、権大納言万延元年(1860年)に議奏文久2年(1862年)に国事御用掛に就任。しかし、薩摩藩の主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、尊皇攘夷派の志士から敵視された結果、翌文久3年(1863年)に失脚する。
同年の八月十八日の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷をリードした。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には刑部卿に就任。その後も内国事務総督教部卿等などを歴任した。明治3年(1871年)12月、家名を嵯峨に改姓。明治13年(1880年)、勲一等旭日大綬章。明治16年(1883年)には、滋宮韶子内親王明宮嘉仁親王の御用掛を拝命した。明治21年(1888年)、従一位。明治42年(1909年)、90歳で薨去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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