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嶋田 信敏(しまだ のぶとし、1960年4月9日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手)・野球解説者、野球指導者。神奈川県生まれ〔外部リンク『日本ハム外野守備コーチ 嶋田 信敏(下)<元日本ハム-相模原クラブ>』を参照。〕<指導者としては、いずれも日本ハムファイターズに所属した。 「島田 信敏」と表記される場合もある〔参考:『'91スポニチプロ野球手帳』P47〕〔『12球団全選手カラー百科名鑑2000』の解説者名鑑より、日本ハムへのコーチ転出者として「島田信敏(TV埼玉)」と記述(P217参照)。〕。 == 来歴・人物 == 日本大学藤沢高等学校からに日本ハムへドラフト外でテスト入団。現役時代は主に守備固め〔『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(1998年発行)の解説者名鑑(P198、テレビ埼玉解説者として紹介)より、選手時代について「16年のほとんどを外野の守備要員ですごすも、いま風のソース顔で人気あり」と記述。〕やバント要員、代走で使われることが多かった。に引退したが、堅実な守備能力を買われ二軍外野守備コーチとしてチームを支えた。 からはソニー生命に営業マンとして勤務する〔傍ら、テレビ埼玉(TVS)で日本ハム戦中継の解説者を務めた〔『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(1998年発行)の解説者名鑑(P198、テレビ埼玉解説者として紹介)より、「異例の抜擢という型で昨年デビュー。先輩後輩良き仲間ばかりのハム中心の放送だが戸惑いながらの1年の経験生かせ。」と記述。〕〔。また、は社会人野球の相模原クラブにコーチ兼外野手として所属した〔。 に日本ハムのコーチへ復帰。まで一軍コーチとして外野守備・走塁コーチや一塁ベースコーチを務めた。その後、に北海道放送(HBCラジオ)の野球解説者を務めていた〔『週刊ベースボール』2005年2月26日増刊号「2005プロ野球全選手写真名鑑」掲載の評論家・解説者名鑑(P148-149)より、HBCラジオの解説者として紹介。〕〔『ラジオ番組表』2005年春号P4-5『番組改編トピックス』内P5掲載「アツイ実況を聴いて盛り上がろう!球界再編元年のナイター中継はこう聴け!」を参照。HBCラジオ野球解説者の一人として明記。〕〔アナウンサー日記バックナンバーNo.126:2005年 3月21日~3月27日 (HBC公式サイト内)より、2005年3月25日付記事『ファイターズ中継はHBCラジオで』(文:川畑恒一)を参照。同年より、HBCラジオの日本ハム戦中継解説者となったことが明記。〕。 春からは高千穂大学硬式野球部の監督を務める(肩書きは「監督代行」)〔古葉監督VS嶋田監督代行“元プロ指揮官対決”…東京新大学 - 『スポーツ報知』アマ野球ニュース 2008年2月28日6時4分(インターネット・アーカイブ2008年3月8日付保存キャッシュ)〕。それに伴い、一切の野球評論活動を中止している(規定により並行はできないため)。監督代行就任後は、秋に東京新大学野球連盟2部リーグ3連覇〔、対杏林大学入れ替え戦も制し〔、4季ぶりの1部リーグ復帰を果たしている〔。また、高校時代に控え野手だった戸田亮(のち、JR東日本硬式野球部を経てオリックス・バファローズへプロ入り)に投手転向を命じている〔オリドラ6戸田、雑草魂で1軍つかむ - 『nikkansports.com』(日刊スポーツ)ドラフト会議2012ニュース 2012年11月18日11時27分(紙面から)〕。 プロ選手時代の応援歌は、コンピュータゲーム『ドルアーガの塔』のエンディングテーマ曲が原曲。後に奈良原浩の応援歌として引き継がれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嶋田信敏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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