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嶽山城(だけやまじょう)は、元弘2年(1332年)に楠木正成が築城した南河内の日本の城。大阪府富田林市彼方の嶽山山頂にあった。中腹に龍泉寺があることから龍泉寺城とも呼ばれる。楠木七城の一つ。 上赤坂城・下赤坂城や千早城の正面入口にあたり、峰続きの南西には金胎寺城が、更に南西には烏帽子形城があった。現在は城のあった辺りにかんぽの宿富田林がある。 == 沿革 == 南北朝時代では南朝方の佐備氏が守将となって防衛に当たっていたが、延元2年/建武4年(1337年)、北朝方の細川顕氏の攻撃により激戦の末陥落した。その後、南朝方が奪還して楠木正儀・和田正武の軍が千人ほどいたが、正平15年/延文5年(1360年)に北朝方の細川清氏、赤松範実によって落とされた。以後は河内守護畠山氏の支城となる。 室町時代中期になると畠山氏にお家騒動が発生、畠山政長に家督や河内・紀伊・越中・山城の守護職を奪われた上に治伐の綸旨まで出され、朝敵にされた畠山義就が長禄4年(1460年)12月、籠城を開始する。ここに応仁の乱の前哨戦とも言える嶽山城の戦いが開始され、2年以上も細川勝元や政長を中心とする幕府軍を散々悩ませたが、寛正4年(1463年)4月15日、成身院光宣の計略によって嶽山城は陥落した。義就はひとまず高野山に逃れ、紀伊を経て最終的に吉野に落ち延びた。 永正5年(1508年)には義就の孫の義英は細川勝元の孫の澄元と合戦となり、嶽山城に立て籠もった。しかし、澄元の家臣である赤沢長経に攻め落とされて落城。義英は城を捨てて逃亡した。 城はこの後の畠山氏の没落と共に廃城になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嶽山城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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