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川上久隅[かわかみ ひさずみ] 川上 久隅(かわかみ ひさずみ、天文元年(1532年) - 慶長16年1月17日(1611年3月1日))は、戦国時代の薩摩の武将。薩摩守護島津氏の一族である川上氏11代当主。父は10代当主の昌久。幼名は犬満丸、通称は彦三郎左衛門尉、上野介。別名は信久、または久信。法号は慰畋。妻は本田薫親の娘。子に久利、久通。
== 生涯 == 父の昌久は島津宗家14代当主勝久の家老職にあったが、勝久を諌めたために自害に追い込まれる。更に勝久は川上氏の居城を攻めたが、久隅の母と家臣たちは久隅を擁して勝久の攻撃を凌いだ。この功績によって後に島津忠良から本領を安堵され、藺牟田(現・鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田)の地頭を仰せ付かった。元亀年間には「吉野牧」(現・鹿児島市吉野町「寺山ふれあい公園」付近)と呼ばれる牧場を開き(「吉野牧」は慶長年間に島津義久へ進上)、天正2年(1574年)には川上村(現・鹿児島市川上町)の地頭に任じられた。 その後島津義弘の家老を務め、天正6年(1578年)の耳川の戦いに従軍、天正9年(1581年)の水俣城攻めでは大将を仰せ付かり、同年肥前有馬氏の加勢として従軍し、龍造寺氏の所有に帰していた千々石城を攻めた際には敵300余を討ち取っている。天正14年(1586年)の岩屋城攻めにも参加した。 長男の久利が文禄の役の際、朝鮮より勝手に帰国したため、次男の久通が家督代となって朝鮮へ出兵していたのであるが、久通は慶長3年(1598年)に朝鮮で病死する。しかし、久利は以降も庄内の乱への出兵にも応じないなど行状を改めなかったため、久隅は久利を庶流とし、久通の子である久貞に川上宗家を継がせ当主とした。 慶長16年(1611年)に死去した。享年80、法名は「孝雲津忠居士」。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川上久隅」の詳細全文を読む
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