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川上 哲治(かわかみ てつはる(現役時代は「てつじ」)、1920年3月23日 - 2013年10月28日)は、熊本県球磨郡大村(現・人吉市)出身のプロ野球選手・監督、野球解説者。 現役時代より、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り、史上初の2000本安打を達成した。戦時中から戦後におけるプロ野球界の大スターとして活躍。終戦直後は「赤バット」を使用してこれが彼のトレードマークとなり、「青バット」を使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。また、青田昇や千葉茂と共に第一次巨人黄金時代の打の中心選手でもあった。監督としてはアル・キャンパニスによって定型化された『ドジャースの戦法』の実践を目指し、王貞治・長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成するなど多大なる功績を残し、「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれる伝説的な存在となった〔『ジャイアンツ栄光の70年』 (ベースボールマガジン社)〕。引退後は、少年野球を開くなど、普及に努めた。愛称は「打撃の神様」「哲」「ドン川上」、長年世田谷区野沢に居住したことから「野沢のおやじさん」。血液型はA型。 妻は元宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団1936年 - 1944年)、ノンフィクション作家の川上貴光は長男。 == 経歴 == === プロ入り前 === 元々は右利きであったが、5歳の時に砂利道で転んで右腕を負傷。経過が悪く完治に半年ほどかかり、治る頃には左利きになっていた。その後しばらくは左投げ右打ちだった。 幼少期に、父親が博打で破産する。熊本県人吉市の大村尋常高等小学校(現・人吉市立人吉西小学校)時代に九州大会優勝、卒業後、篤志家の援助で熊本県立工業学校(現・熊本工業高等学校)に入学。一旦は退学し、中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)に編入、さらに人吉中学校(現・熊本県立人吉高等学校)を経て、熊本県立工業学校に復学。2年生の4月から左打ちに転向した。 投手として吉原正喜とのバッテリーが評判となり、夏の全国中等学校優勝野球大会へ2度(1934年・1937年)出場し、いずれも準優勝する。1937年の全国中等学校優勝野球大会の決勝戦では中京商の野口二郎と投げ合い、後にプロ野球入りして絶妙のコントロールと言われることになる野口が6四球、プロ入り後コントロール難で投手失格で打者転向する川上が無四球という、プロ野球入り後とはお互い対照的なピッチングを見せるが、3対1で敗れている〔講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」628ページ〕。決勝戦終了後に甲子園球場の土をユニフォームのポケットに入れ、母校のグラウンドに撒いた。甲子園の土の持ち帰り第1号とされている〔阪神甲子園球場HP より。ただし川上本人は「先にやっていた選手がいた」と証言している。〕。この時は中京商に負けたものの、優秀投手に選ばれている。また春の選抜中等学校野球大会にも1回出場(1936年)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川上哲治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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