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川上 忠智(かわかみ ただとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。 島津義弘の家老を務め、日向国高鍋、大隅国栗野、薩摩国馬越、大隅国蒲生などの地頭職を務めた。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いでは島津義弘の正室と嫡子の鶴寿丸の住まう加久藤城の城代を務めており、遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共に伊東氏の軍勢を撃退せしめた。 天正6年(1578年)伊東氏の財部城城主・落合兼朝が島津家に寝返ると、忠智は財部城主に任命される。 天正8年(1580年)、新納忠元、鎌田政年らと共に肥後国の阿蘇氏領の矢崎城(熊本県宇土郡)城主・中村惟冬を攻めこれを討ち滅ぼす。 天正12年(1584年)3月24日、沖田畷の戦いにおいて肥前国の龍造寺氏と戦いその本隊を襲撃、嫡子・川上忠堅が大将の龍造寺隆信を討ち取る大功を挙げている。 慶長12年(1607年)、病死した。 == 参考文献 == *『小林市史 第一巻』:小林市史編纂委員会 *『戦国人名事典 コンパクト版』:新人物往来社 ISBN 4-404-01752-9 *『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川上忠智」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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