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川上貫一[かわかみ かんいち]
川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年1月28日 - 1968年9月12日)は、大正・昭和の労働運動活動家・政治家。後に日本共産党国会議員団長となる。娘は洋画家の川上律江。 == 略歴 == 岡山県新見市(当時の阿哲郡野馳村、その後同郡哲西町)出身。 1907年県立農学校を卒業後、代用教員や岡山県職員を務め、後に大阪府の社会課主事に転じる。1927年に昭和文化学会に参加して以後、共産党シンパとしての活動を強め、翌年には検挙を受ける。また、1937年の人民戦線事件でも検挙されて懲役2年の実刑判決を受けている。この間、マルクス経済学を学び、社会主義系の雑誌や研究所の立ち上げに関与した。 1949年、第24回衆議院議員総選挙で大阪府第2区に日本共産党から立候補して衆議院議員に初当選する。ところが、1951年に衆議院の代表質問を行い、当時行われていた朝鮮戦争(結果的にはGHQ)や吉田茂内閣の単独講和論を非難した際、革命を賞賛して議会政治を否認するとも受け取られる発言が含まれていたとされ、懲罰委員会にかけられて本会議での陳謝を命じられたが、川上は用意された陳謝文の朗読を拒否したため、3月29日に衆議院本会議で賛成239、反対71となり除名処分となった。同年9月に占領政策に反したとして逮捕・起訴され、公職追放(レッドパージ)された。なお、レッド・パージによる公職追放処分や占領政策に反した罪状は1952年4月28日に平和条約が発効して解除され、川上は政治活動を再開した。 1953年、川上は第26回衆議院議員総選挙で大阪2区から当選し、衆議院議員に返り咲いた。これは共産党にとっても唯一の議席で、前年の第25回衆議院議員総選挙における公認候補全員落選からの挽回だった。1958年の第28回衆議院議員総選挙では落選するものの、次の選挙で当選し、復職した。通算6回の当選を果たし、党の国会議員団長にもなった。また共産党内では1958年に党中央委員を務めた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川上貫一」の詳細全文を読む
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