|
川井 久敬(かわい ひさたか、享保10年(1725年) - 安永4年10月26日(1775年11月18日))は江戸時代中期の幕臣。通称次郎兵衛。従五位下越前守。低禄から勘定奉行に立身出世した。 小普請組頭より勘定吟味役となり、明和8年勘定奉行に就任した。田沼意次の貨幣政策の実現に向けて、明和五匁銀および南鐐二朱銀の鋳造を言上した。安永4年には田安家家老を兼任するが、同年51歳で没した。墓所は東京都中野区上高田1丁目の龍興寺。同年1月に嫡男の川井久道が没していた為、孫で和算家の川井久徳が家督を継いだ。 死後に「兼役(倹約)は、身を絶やす(田安)べき前表(千俵)か、四十九(始終苦)にして死ぬは川井(可愛)や」という落書があったとされる。 == 関連項目 == *銀座 *銭座 *寛永通宝(真鍮四文銭) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川井久敬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|