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川勝広當 : ウィキペディア日本語版
川勝広當

川勝 広當(かわかつ ひろまさ)は、江戸時代中期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の6代当主。
== 生涯 ==
宝永6年(1709年)、松平忠明の五男として江戸に生まれ、後に川勝広豊の婿養子となった。享保11年(1726年)4月5日、義父広豊の死去により、その家督(丹波内2,570石余)を継ぎ、同年8月7日に初めて将軍徳川吉宗に謁見した。
寛保2年(1742年)10月15日、使番となり、同年12月18日に布衣を着る事を許された。延享元年(1744年)5月6日、城引渡しに関する命を受け、備中国松山に赴き、板倉周防守勝澄に公儀の命令を伝えた〔延享元年(1744年)3月、板倉勝澄伊勢亀山藩から備中松山藩に国替となった。〕。延享3年(1746年)4月6日、使者の命を受け日光山に行ったが、これは甚だしく地震があったためである。同年7月21日に小普請組支配〔小普請入りした武士達の支配、人夫賃の集金、連絡などにあたる3 - 4千石級の旗本。老中支配。〕にかわった。宝暦5年(1755年)8月28日、甲府勤番支配にうつり、同年11月15日に従五位下近江守に叙任した。宝暦13年(1763年)12月15日、持筒頭となった。
明和6年(1769年)12月10日、職を辞して寄合に列した。安永4年(1775年)5月10日に隠居し、隠居料として蔵米300俵を給わった。家督は婿養子の広長に譲った〔婿養子の広顕が28歳で早世したため、同じく婿養子の広長が義父広當の家督を継いだ。〕。寛政2年(1790年)2月17日、82歳で没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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