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川勝広綱 : ウィキペディア日本語版
川勝広綱[かわかつ ひろつな]

川勝 広綱(かわかつ ひろつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本。秀氏流川勝家(本家)の2代当主。
== 生涯 ==
天正7年(1579年)、川勝秀氏の嫡男として丹波に生まれた。豊臣秀吉馬廻で、丹波国多紀郡内に200石、ついで近江国甲賀郡内に340石余を加増され、従五位下信濃守に叙任された。後に近江国甲賀郡内の領地を、丹波国船井郡内に移された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父秀氏とともに西軍に与して細川幽斎が拠る丹後田辺城攻撃(田辺城の戦い)に参加した。しかし、秀氏父子は徳川家康に赦され、改易を免れた(広綱は丹波国多紀郡・船井郡内から丹波国船井郡内に転封)。慶長6年(1601年)、室町時代以来の丹波の旧族、細川三斎の推挙により召し出されて、父秀氏は旗本家を興した。
慶長11年(1606年駿府城普請の命を受け、同年6月20日、勤めの褒賞として御書を給わった。慶長12年(1607年)7月、父秀氏の死去により、その家督(丹波内3,570石余〔家督を継ぐ際、叔父川勝重氏に丹波国氷上郡内の500石を分知した。〕)を継いだ。元和3年(1617年)京都知恩院普請の奉行を務めた。寛永8年(1631年使番となり、寛永10年(1633年)正月13日、命を受けて五畿内巡見した〔寛永10年(1633年)1月6日、将軍家光は『慶長日本図』の校訂を理由として、国廻り派遣を行うこととした。〕。寛永11年(1634年)、将軍徳川家光の上洛に供奉し、寛永14年(1637年)9月12日、目付として豊後国府内に赴いた。後にまた命を受け、たびたび府内に出かけた〔寛永15年(1638年)から豊後府内藩主日根野吉明は、島原の乱鎮圧のため幕府軍に従軍している。〕。寛永16年(1639年)10月15日、大和国高取に赴き、目付の仕事を務めた。寛永17年(1640年高取城植村家政に与えるため〔寛永17年(1640年)10月19日、旗本であった植村家政は大和高取藩2万5,000石の初代藩主となった。〕、現地で城引渡しの役を務めた。寛永19年(1642年)4月、将軍家光の日光社参に供奉した。寛永20年(1643年)11月朔日、池田光仲の領地である因幡国鳥取に出かけ、政務の監視をした。正保2年(1645年松平忠昌が死去したため、同年8月16日に命を受けて越前国福井に出かけた。慶安2年(1649年永井直清摂津国高槻城を与えるため〔慶安2年(1649年)7月4日、永井直清は山城長岡藩から1万6,000石加増されて、摂津高槻藩に移封となった。〕、同年8月2日、命を受けて城引渡しの役を務めた。慶安3年(1650年)閏10月17日、細川六丸(後の綱利)が幼いため、その領地肥後国熊本に出かけ、政務を監視した〔慶安3年(1650年)4月18日、六丸こと細川綱利の相続は許されたが、幕府目付と小倉藩小笠原忠真がその政務を監視した。〕。後に職を辞し、寄合に列した。
寛文元年(1661年)9月12日、83歳で死去した。家督は広尚の嫡男の川勝広有が継いだ〔嫡男の広尚が31歳で早世したため、広尚の嫡男の広有が祖父広綱の家督を継いだ(嫡孫相続)。〕。また、二男の広氏は新たに旗本家を興した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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