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川勝隆尚[かわかつたかしなお]
川勝 隆尚(かわかつ たかなお)は、江戸時代前期から中期の旗本。元館林藩臣。隆尚流川勝家の初代当主。 == 生涯 == 寛永15年(1638年)、川勝重氏の四男として生まれた。正保3年(1646年)6月5日、召されて徳川綱吉(館林藩主)に仕え、小姓となった。慶安元年(1648年)12月11日、月俸を20口給わり、後に神田の館において書院番組頭となり、蔵米300俵を給わった。後にまた小姓組番頭に進み、200俵加えられ、先の月俸は返上した。延宝8年(1680年)の綱吉将軍就任に伴い幕臣となり、旗本家を興した。家紋は五七桐、釘抜。通し字は「隆」。 延宝8年(1680年)、徳川徳松殿〔延宝8年(1680年)2歳で館林藩主を継いだが、天和3年(1683年)閏5月28日に5歳で夭折した。〕(将軍綱吉の長男)が西城に移るときに従い、天和3年(1683年)閏5月21日に御傅となったが、徳松殿逝去の後退職を許され、小普請となった。貞享元年(1684年)10月10日、小姓組に列し、貞享2年(1685年)10月3日に新番頭に進み、奥の勤も兼ねた。同年12月23日、300俵を加えられ、同年12月28日に布衣を着る事を許された。元禄9年(1696年)4月11日、先手弓頭に転じ〔江戸の治安維持、江戸城の城門の警備、将軍外出時の警護などにあたった。若年寄支配。〕、元禄10年(1697年)7月26日に蔵米を領地に改め、上野国多胡郡、緑野郡、新田郡、佐位郡、群馬郡内において800石を給わった。元禄14年(1701年)正月11日、持弓頭にうつり、宝永元年(1704年)8月11日に小姓組番頭に進んだ〔小姓組番頭は、与頭1人と番士50人を従え、城内の将軍警護にあたった。本城に6番あった。若年寄支配。〕。同年12月11日、従五位下、能登守に叙任し、同年12月12日に上野国群馬郡、多胡郡内において1,000石の加増があった。宝永5年(1708年)12月9日、1,000石の加増があり、先に給わった800石の土地を改め、相模国愛甲郡、大住郡、高座郡内において1,800石給わり、全てで上野・相模内2,800石を知行した。正徳5年(1715年)9月11日、職を辞して、同年12月11日に隠居し、隠居料として蔵米300俵を給わった。家督は養子の隆明に譲った。享保15年(1730年)5月17日、93歳で没した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川勝隆尚」の詳細全文を読む
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