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川口彦治[かわぐち ひこはる]
川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3年12月10日)〔『人事興信録』第4版、か46頁。〕 - 1955年(昭和30年)5月〔『新編日本の歴代知事』173頁。〕)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事、関東庁事務総長。 ==経歴== 日向国諸県郡、後の宮崎県西諸県郡加久藤村(現えびの市)出身〔『新編日本の歴代知事』590頁。〕。郷士・川口時清の長男として生まれる〔。第七高等学校造士館を卒業。1899年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した〔〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』181頁。〕。 以後、警視庁警視・府中警察署長、山梨県警部長、山梨県事務官・第四部長、茨城県事務官・第四部長、大分県事務官・第一部長兼第三部長〔『官報』第7061号、明治40年1月15日。〕、愛知県事務官・内務部長などを歴任〔〔。 1913年6月、大分県知事に就任〔『新編日本の歴代知事』1063頁。〕。1914年4月、奈良県知事に転任。「政友会札付知事」と呼ばれた。好景気による奢侈生活を戒める生活合理化を推奨した。1915年7月、知事を休職となる〔『新編日本の歴代知事』717頁。〕。1917年1月、秋田県知事として復帰。憲政会の強い秋田県会を「原案執行」という強硬策で乗り切った〔。1919年4月、熊本県知事に転任。憲政会の強い県内において政友会の勢力伸長を図った〔『新編日本の歴代知事』1040頁。〕。1921年5月、愛知県知事に転任。名古屋市の憲政会勢力を抑制するため、同年8月に名古屋市に隣接町村を編入し、市域を拡大させた市議選に干渉したが失敗した〔。1923年6月、関東庁事務総長に転任。1924年6月30日に辞職し退官した〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』127頁。〕。 1927年、不動産貯蓄銀行取締役となり10年間在任した〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川口彦治」の詳細全文を読む
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