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川喜田半泥子[かわきた はんでいし]
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。 ==前半生・財界人として== 大阪府生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、半泥子は祖母「政」の手によって育てられた。また筆頭分家の川喜多四郎兵衛からも教育を受け、三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)を卒業。1901年(明治34年)、23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。 1903年(明治36年)に百五銀行の取締役に就任。1919年(大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めた。頭取としては、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で地元の中小銀行を買収・合併していき、1922年には吉田銀行、1925年には河芸銀行、1929年には一志銀行を買収し、1943年には勢南銀行を合併して規模を拡大していった〔戦間期における地方銀行の有価証券投資 p11 粕谷誠 日本銀行金融研究所 2003年10月〕。1924年には津市中心部の丸之内に新本店を建設。1931年の金融恐慌においては自らの個人株を担保として日本銀行より現金を借り入れ、窓口に積み上げて現金が豊富にあることをアピールし、取り付け騒ぎを乗り切った〔百五銀行沿革(大正) 〕。こうして、彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めている〔三重県立美術館/川喜田半泥子 年譜、毛利伊知郎編 川喜田半泥子展図録 〕。また、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川喜田半泥子」の詳細全文を読む
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