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川島億二郎 : ウィキペディア日本語版
三島億二郎[みしま おくじろう]

三島 億二郎(みしま おくじろう)は、江戸時代末期から明治時代にかけての武士越後長岡藩士)、政治家実業家北越戦争で疲弊した越後国新潟県長岡復興近代化に尽力した。
== 経歴 ==

=== 北越戦争まで ===
文政8年(1825年)、長岡藩士・伊丹市左衛門の二男として、長岡城下の長町に生まれる。最初の名前は鋭次郎河井継之助小林虎三郎らは近所の幼なじみであった。また、兄の伊丹政由は、藩校・崇徳館の教授であった山田愛之助の指導で結成された「桶宗」の中心人物であった。そのため、鋭次郎も河井や小林と共にこれに加わった。
弘化元年(1844年)、長岡藩士・川島徳兵衛の養子となる。川島家は30石の微禄であった(後に7石加増)。崇徳館の助教を経て、嘉永2年(1849年)には江戸藩邸勤務となる。江戸在勤中に、佐久間象山の塾に通うようになり、そこで吉田松陰とも親しくなった。
嘉永6年(1853年)にペリーが来航すると、老中であった藩主・牧野忠雅の命で浦賀まで偵察に赴き、状況をありのまま報告するが、その際に提出した意見で忠雅の不興を買い、長岡に帰される。安政6年(1859年)、時の藩主・牧野忠恭(忠雅の養子)に子・鋭橘(後の牧野忠毅)が誕生したため、鋭次郎から億次郎に改名した。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際して、当初は新政府軍に抗戦することには反対していた。しかし、慈眼寺での談判が決裂した後、開戦の決意を固めた河井の説得に同意。軍事掛となって山本帯刀らとともに北越戦争で奮戦し、八丁沖からの長岡城奪還にも参加している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三島億二郎」の詳細全文を読む



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