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川嶋 孝彦(かわしま たかひこ、1897年2月23日 - 1958年2月23日)は、日本の官僚。内閣統計局長。位階勲等は従三位勲二等旭日重光章。太平洋戦争前から戦中にかけて政府上層部に統計制度の刷新を建議した。戦後の1945年11月には人口調査を実施するほか、統計制度改革案を政府および連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)に提出し、戦後の統計制度改革の端緒を開いた。文仁親王妃紀子の祖父。悠仁親王の曽祖父に当たる。 なお、文書等において「川島」と表記される例が多いが、本名は「川嶋」である。 == 生涯 == 1897年(明治30年)2月23日、当時富山県師範学校訓導であった父・川嶋庄一郎と母・志まの長男として富山市に生まれる。本籍地は和歌山市。 旧制佐賀中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に進み、在学中の1922年(大正11年)に文官高等試験行政科試験に合格。翌1923年(大正12年)3月の卒業後、内務省に就職した。 三重県警察部警部を振り出しに、茨城県・長崎県・広島県・兵庫県の警察部に勤務した後、1931年(昭和6年)12月、内閣書記官に任じられた。1933年(昭和8年)5月、内閣官房総務課長に昇進。1937年(昭和12年)11月に内閣統計局人口課長に転じ、1939年(昭和14年)1月、内閣統計局長に任じられた。 川嶋はソビエト連邦、ドイツ、アメリカ合衆国の統計制度を調査研究した結果、日本の統計制度はこれらの国に著しく立ち遅れていると判断し、1940年(昭和15年)8月10日、総理大臣の近衛文麿に「統計制度刷新ニ関スル意見書」を提出した。この意見書は、ソ連の統計制度を参考に作成された。その内容は統計制度に最強度の中央集権制度を採用するもので、各省庁の統計調査を統制の上で調査結果を監査し、さらに統計職員の身分および執務についても中央統計機関の企図に従わしめるとともに、中央統計機関としてできる限り各省庁の統計に対する需要に応じさせようとした。これによって官界の通弊であった統計調査の乱立傾向を徹底的に改善しようとするものであった。 川嶋はその後も政府上層部に意見書の改革意見を採用するよう上申を繰り返し、1942年(昭和17年)8月、首相・東條英機にも同様の意見書を提出したが、その理想は現実と余りにも隔たりの大きいものであったため、実現には至らなかった。 終戦後、統計制度の改革を求める機運が急激に高まる中、1945年(昭和20年)12月25日、川嶋は首相官邸に次田大三郎内閣書記官長を訪問し、「我国統計機能充実整備案」を提出した。さらに、1946年(昭和21年)2月17日には楢橋渡内閣書記官長およびGHQに「統計制度改革案」を提出した。これらの川嶋の提言により、1946年7月19日、内閣に「統計制度の改革に関する委員会」が設置されることとなった。委員長には大内兵衛、委員には各省の統計部局長および統計学者が任命された。 同委員会は1946年8月24日、首相官邸で第一回総会が開催され、川嶋の提出した「統計制度改革案」が審議された。川嶋提案に対して、内務省などが一部に賛同を示したが各省の多くは反対意見を述べた。各省の意見は、統計組織について明治以来使われてきた分散主義の継続を提唱するものであった。委員会は、その後小委員会を開催して審議を行った結果、1946年10月21日に第2回総会を首相官邸で開催し、吉田茂首相に「統計改善に関する件」と題する答申書を提出した。答申の内容は内閣に統計委員会を設置すること、同委員会において統計法を立案すること、各省の統計組織の改革案を作成するというものであった。結局はアメリカ型の分散主義の統計制度を採用することとなり、川嶋が戦前から一貫して提唱してきた中央集権型の統計制度は検討の枠外に置かれることになった。 1947年(昭和22年)1月21日、川嶋は内閣統計局長を辞任した。その後、参議院人事委員会専門員、国会図書館専門調査員などを歴任するが、在任中の1958年(昭和33年)2月23日、肺癌のため、東京都新宿区の自宅で死去した。同日、従三位が追贈され、勲二等旭日重光章が授与された〔官報 昭和33年2月27日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川嶋孝彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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