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川崎俊一[かわさき しゅんいち] 川崎 俊一(かわさき しゅんいち、1896年(明治29年)1月24日 - 1943年(昭和18年)1月19日)は、日本の大正から昭和期における地球物理学者。 京都帝国大学理学部宇宙物理学教室の最初の卒業生で、水沢緯度観測所第二代所長を務めた。 == 生涯 == 滋賀県栗太郡治田村(現在草津市と栗東市にまたがる)に生まれる。姉の英子は、天文学者で京都帝国大学教授山本一清の妻となる。京都府立第二中学校、1912年(大正3年)広島高等師範学校に入学し〔「広島高等師範学校一覧 大正10年度 卒業生(大正6年3月卒業)数物化学部〕、京都帝国大学理学部に1917年(大正8年)入学〔「京都帝国大学一覧 大正15年至昭和2年 理学部学生及び生徒」(京都帝国大学)〕、1920年(大正11年)京都帝国大学理学部宇宙物理学教室第一期生として卒業する〔「京都帝国大学一覧 大正9年至大正11年 理学士 大正11年3月学士試験合格」(京都帝国大学)〕。 1920年(大正11年)京都帝国大学卒業後水沢緯度観測所に技師として入所する。1932年(昭和7年)より1934年(昭和9年)にかけてアメリカに留学し、グリニッジ天文台にて緯度変動に係る研究を行い、留学中の1933年(昭和8年9月)リスボンで行われた国際測地学・地球物理学連合会議に日本を代表して出席した〔「天界 23(262)1943年3月 故川崎俊一君を悼む 山本一淸」(東亜天文学会)〕。1937年(昭和12年)論文提出により理学博士学位を得、1941年(昭和16年)5月初代水沢緯度観測所所長木村栄博士退任により第二代所長に就任した。しかし、就任3年目の1943年(昭和18年)1月19日、47歳の誕生日直前に逝去する。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川崎俊一」の詳細全文を読む
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