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川崎 燎(かわさき りょう、1947年2月25日 - )は、日本を代表するジャズ・ギタリスト。1960年代後半から世界を股に駆けて活躍している。 1980年代半ばには、米国で発売されたPCの元祖、コモドール64の為に書かれた幾つかの音楽ソフト(以後日本でも富士通FMシンセ搭載の機種に同時期に変換され発売された)の著者およびそれ以前の1970年代後半には当時のギターシンセサイザー開発者の一人としても全世界で著名な人でもある。 == 来歴 == 川崎燎の父の川崎寅雄は海外生活が大半で、昭和初頭以来外交官として働き、当時英語の第一人者でもあった。満州育ちの多言語才女の母、旧姓・富村熙子(ひろこ)と上海で巡り合い、戦後シベリアにしばらく抑留された寅雄と妊娠中に上海から日本へ強制送還された母の間に一人息子として、第二次世界大戦直後の混沌としていた日本の東京に生まれ、音楽、科学、電気、天文学等に興味を持ちながら育った。 高校卒業後、日本大学で物理学を学ぶ傍ら、ジャズ・ギタリストとしての活動もスタート。やがてトップ・ミュージシャンの一人として認められるようになり、忙しく数年に渡り活躍した後1973年にアメリカのニューヨーク市に住み着いた。その後殆ど間もなくアメリカのジャズ・シーンに発掘され、そのジャズの本場でギル・エヴァンス、トランペット奏者のテッド・カーソン、ドラマーのエルヴィン・ジョーンズ、チコ・ハミルトン、ピアノのジョアン・ブラツキーン、フルートのボビー・ハンフリー、歌手のジョー・リー・ウイルソン、サックスのデイヴ・リーブマン、プロデューサーのテオ・マセロ、その他数々の有名なアメリカのジャズの巨匠達のサイド・マンとしてレコーディングやツアーに参加して活躍した。川崎 燎のディスコグラフィーはすでに30作近くのリーダー・アルバムの他に50作以上の作品にプロデューサー或いはフィーチャード・アーティストとして参加している。川崎の音楽そしてギター演奏の特性は様々な奏法要素(ブルース、ロック、ハード・バップ、バラード、そしてクラシカル、スパニッシュ、ブラジリアン等のアコースティック的奏法や感性)などを自然、かつ巧みに入れ混ぜながら彼独自のギター音楽世界を醸し出せる技量がある所にあろう。そして彼の天性でもある作曲、編曲家そして科学的な嗜好等が彼のスタイルを築く土台となっている様にも見受けられる。 彼の最新の活動の一部は、エストニアの首都タリンにあるエストニアン・ナショナル・オペラ・ハウスで公演されていた新しいジャズ・バレエ “ステイル・ポイント”の作編曲担当および音楽監督、ギタリストとしても参加している。 2000年6月に彼はエストニアの首都タリンで久々のスタジオ・ライヴのギター・トリオの作品『レヴァル』を録音した。リズム・セクションはエストニアのトップ・ミュージシャンのトイヴォ・ウント(ベース)とアイヴァー・ヴァツシリヤフ(ドラム)が勤め、情緒豊かなクリステー・キールのイングリッシュ・ホーンが何曲かにゲストとして参加している。2002年にはアコースティック・ソロ・ギター・アルバムの3作目にあたる『E』(邦題:リラクシング・ギター・ソロ)を発売。その後はタリンに拠点を移しカナダのモントリオール・ジャズ祭を皮切りにフィンランドのポリ・ジャズ祭、バルト三国のエストニア、ラトヴィア、リトアニア、そしてウクライナ、ロシア、スウェーデンでの各ジャズ祭、クラブ等に精力的に出演している。同時に、1990年代後半から、彼が1970年代から1980年代初頭に発表したアルバムがCDとして再発されている また、エストニアのヌンメ・ジャズ祭の制作幹部でもある。2005年には、ベーシスト鈴木良雄の率いる、バルト三国では初の日本人のみのジャズ・ グループ”ベース・トーク”を日本から数週間に渡る北欧ツアーに招待すると言う偉業も成し遂げている。2007年3月には鈴木良雄との新作デュオ・アルバム『アガナ』の発売記念公演を日本で3週間に渡り行い同年11月にも更に九州地区中心のツアーを2週間に渡り行っている。また、2005年以降は同じくタリン在住のアメリカ人ドラマー・ブライアン・メルヴィンとギター・トリオ"Art Of Trio"を結成して新たなギター・トリオ・サウンドを追求する活動もしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川崎燎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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